シェフと60分 ホテル西洋銀座シェフ・パティシエ・稲村省三氏
「トータルとしてのお菓子にすべてをかけている。シュクル(アメ細工)は技術の一つ、演出の一つに過ぎない」という。
シュクルとはフランス語で砂糖の意。砂糖を煮溶かし手を加えたアメ細工もシュクルと言われる。
二時間で消えゆく光と輝きに美を求める、お菓子の芸術である。
「まず、お菓子は食べる行為が第一」にあり、実質的にはケーキだけでも良いわけだが、より食べ手の心に刻み込ませる演出として華やかなシュクルがあるという。
この華やかさ、派手さが注目され「飾り屋として見られる」が、あくまでも食べるお菓子の脇役。
光り輝くシュクルあってこそお菓子の存在が引き立つ。「両者の特性を捉え、手先の器用さを強調したものではなく、トータルとしてのお菓子作りをしたい」と強調する。
「日本の消費者は、本当に完成されたシュクルを見ていない、その素晴らしさを知らない」と残念がる。
パティシエにとり、シュクルは湿気の多い日本では技術的にも難しく、また時間をかけても採算が合わないことから敬遠され、その伸びはいまひとつ。
自身も一四、五年前フランスへ行き、コンクール会場で、初めて現物と見ちがうほど写実的、絵画的シュクルに出合ったという。
「ここまでやるのか」というほどの驚きと感激を覚える。
当時の日本人は日本に帰っても商売にならないと挑戦する者はほとんどいなかった。
乾燥したフランスと違い湿度の高い日本では、溶けやすく、べたつき、独特の輝きを失いやすいからだ。
地域により条件は異なるが、東京では10月下旬から翌年の3月末までが美しい輝きを保つことができる。
ただし約二時間という短命。
挑戦者も少ないその当時「こんな素晴らしいものに感動しない者はいない」とあえて挑戦。無からのスタートながら、持ち前の負けん気からコンクール出場で腕を磨く。
現在、上位入賞まで果たした成果を持ち帰り、新しい商品として販売を推し進めている。
「海外に出掛ける人が多くなり理解度も上がった。やっと良しあしがわかってもらえる土壌ができたのです」
今後さらに研鑽を重ね「まねではなく、日本独自の新しいものを打ち出したい」と、模索中だ。
「コンクールでなにがなんでも一位を取って帰りたい」一念だったフランスでの生活。
言葉ができないため形で表現しなければならない、そのためには、まずコンクールに入賞しなければと、コンクールに向けての毎日だった。
シャルルプルースト、ガストロノミック、クープドフランスなどに果敢に挑戦し、上位入賞を果たすのだが、結局、念願の一位は取らずじまい。
たまたま扁桃腺手術で入院した時、ほとんど死に近い入院患者と同室となった。
ここで人生最終地点に立つ彼らと家族を見た時、幼い頃弟をいじめていたことが走馬燈のごとく頭を駆けめぐる。
「これまで常に自分はこうだと主張していたのが、逆に自分から他人にやれることはないかに変わったのです」
それまでのコンクール一辺倒の生活から急遽帰国の途につく。
帰国後、弟の結婚式のウエディングケーキを作るが、この時点から作る喜びが、自分だけのものから他の人を喜ばせように変化。
「人生の大きな転機でした」と述懐する。
こうした姿勢が、ゼロからの出発で辛酸を舐めつくした自らの体験をもとに、後輩たちへの技術指導書の上梓となった。
フランスで体験したパティシエの世界、日本とは大きく違うところがある。
見習いシステムもその一つ。
通常三年間の見習い期間中、半日を学校で理論学習し、後の半日が現場での実習というシステムとなっている。
こうしたシステムがしっかりしているため、どこへ行っても即戦力となりうる。また、MOF(職人無形文化人)システムがどの職にも設けてあり、職人としての目標がたてられる。
日本では、見て覚える学習法。先輩の目を盗んで覚える法を取っているため、聞いても答えてもらえず、答えても各人その内容が違っている。
技術習得後も、自分の店を持つか、学校の先生になるのがせいぜいの目標。
社会システムの確立が望まれるところだ。
東京ヒルトンホテルではペストリー、ベーカリーの判別も定かでないまま、お菓子を目指してのベーカリー勤務を四年する。
同ホテルにはトレーニングシステムがあり、勤務時間後、自分がしたい仕事に就くことができる。
バッシングボーイを希望し、四ヵ月の勤務で「パンが前菜的に食べられたりする現場を見、単純なようで奥の深さ」を知ったという。
また、厨房が宴会、菓子、パンと一緒だったため、宴会の人のうまい盛り付は生け花の素養があってのことと知り、さっそくまねる。
「こうした回り道が蓄積されて、今でも応用し生かしています」
文 上田喜子
カメラ 岡安秀一
一九五二年埼玉県熊谷市生まれ。早稲田調理師学校卒業後、赤坂・山王飯店にウエーターとして勤務する。しかし、料理人の夢消え失せず、人を介し東京ヒルトンホテルの調理場にウエーティング三六番目で入る。見習いまで五年はかかるのを覚悟をしてのことだった。ここで菓子の世界を知り、自分には肉や魚を扱う料理には向かないとペストリーへ方向転換する。
二七歳で長年の夢であったヨーロッパへ行き、ここで出会ったシュクルに魅せられ修業、数々のコンクール上位入賞を果たす。
帰国後、ホテル西洋銀座に入社、現在、シェフ・パティシエとして活躍するかたわら、後進への指導書として「シュクル」を出版した。