トップインタビュー 東京かに道楽・今津久雄代表取締役社長

1994.12.19 66号 5面

‐‐今年は東京進出二〇年の節目にあたる年でしたが、大阪の食文化の象徴を東京に根づかせるために、大変なご苦労を経験したと聞きました。

今津 東京一号店は赤坂のミカドの前に昭和48年12月に出店しました。私は48年3月に大学を卒業してスキープロカメラマンのアシスタントとして東京・浅草の会社に就職したのですが、その年の8月に父がひょっこり職場にやってきまして、東京に店を出すためにどうしても息子の力が必要と談判し、私はあえなく夢をたちきられ、家業に就くことになりました。オープンしてからは若さにまかせて朝の9時から翌朝3時まで毎日本当によく働きました。

ところがある大雪の日、決してしてはいけない寝坊をしたことがきっかけで家出してしまうんです。気がついたら上野駅でスキー板をかつぎ、越後湯沢行きの切符を持っていました。今で言う“プッツン”です。原因はたまりにたまったストレスです。

店の運営は店長とおかみの二人三脚なのですが、当時の人事は“たすき掛け人事”と申しまして、店長の奥さんも働いているのに調理主任の奥さんがおかみとなり、四人のベテランに知識はないがやる気だけはマンマンの私が加わり、毎日五人でケンカをしていました。大阪と勝手が違い、思うにまかせなかったという面もあります。

加えて、ウエートレスさんが、私の考えとまったく違っていました。お運びしかしないんです。大阪では手があいている時には洗いもし、掃除もし、気がついたことは何も言わなくてもしてくれました。担当の主任は「私達はウエートレスで来ているんですよ」と言う。だんだん、私に誰もついて来てくれないことになりストレスがたまっていったんですね。当時入社したばかりで相談する相手もいなかったですしね。この一件で父には前代未聞の勘当をされました。

約半年で戻り、京都に二ヵ月入って、東京二号店の新宿歌舞伎町本館の出店には工事の時から携わりました。オイルショックが落ちついた53年には隣に別館を出しました。その間に横浜と浜松に出店しています。

‐‐売上げの方はいかがだったんですか。

今津 歌舞伎町本館は、京都時代から私の片腕となった人が副店長の時に第二次オイルショックの最中にもかかわらず年間三〇%売上げを伸ばしました。父が開店六~七年でよくこんなに伸ばしたと認めてくれ、たまたま新宿に良い物件が出まして「儲けた人が使う権利がある。そのかわり、五年間のみ」と期限付きで投資をしてくれました。それが今の新宿本店で二〇七坪の店です。これが私が自分で物件を見つけて開店させた初めての店です。

‐‐なぜ期限付きだったのですか。

今津 その物件はテナントだったんです。「テナントは儲からない。土地があって初めて儲かる」という当時の考え方だったので、成功すると思っていないんです。ですから五年でたたんで帰ってこいと‐‐。その後は二年に一店、一年に一店と出店し、(株)東京かに道楽は現在は東京、横浜、神奈川、浜松に一五店を展開しています。

‐‐かに道楽のテナント戦略に先鞭をつけたわけですね。

今津 そういうことになります。61年に自社ビルだった東京一号店の赤坂店を「東京についになじまなかった」と閉店し、銀座に従業員をそのまま移して出店しています。この店がテナント二号店になります。私には本店がまぐれでない証しを出さなくてはいけないと賭けのような気持ちもありました。おかげさまで銀座は九年間ずっと伸び続けている優良店です。二〇〇坪、二〇〇席のキャパが銀座という街にぴったり合ったんだと思います。

逆に、今年6月に閉店した浜松二号店は完全にキャパシティーオーバーでした。二店を一店にしても浜松の売上げは前年比九割を上げている。自分で出した店を閉めるというのは二〇年目にして最初の経験ですが思い知らされました。

‐‐接待利用の多いかに道楽はそのサービスと従業員教育に定評がありますが、人手不足の時など、どのようにして乗り切りましたか。

今津 私の夢は笑われそうですが入社試験をしたい、入社式をしたいの二つだったんです。要は社会に認知される商いをしたいということです。例年五人位しか採用しなかったところ、昭和60年には関東だけで八〇人採用するようになり、人集めには知恵を絞りました。大阪は食い倒れと言われるように“食”は基幹産業ですが、東京ではメーカーや銀行など花形産業がたくさんあり、「なんで学校出て食堂なの?」と言われます。

そこで、フラワー事業部をつくり、花の仕事もありますよと言ったら女子高生が多数入社してくれました。このようにカニだけではないというノベルティをつけて表現として仕事の間口を広げて求人をし、人集めは順調でした。一方では急増する社員のために研修所のジャービック(JRBC)を中野につくりました。しかし、入社しても一~二年で大半がやめていく。そこで社員相談室をつくりました。

店の基本である店長夫婦の店長とおかみ制度も時代にあわなくなり、おかみの代わりにお客さまの代理というアジェンテ制度を導入、時代がファジーになり、利益を生む三つの業態が必要と言われていますので、私は現行のレストラン、不動産にレジャーを取ろうと考え、レストランに近い花や教育に着手したという経緯があります。

‐‐業界ではサービスレスが手法の一つとして定着しつつあるなか、「レストランの王道」を貫いていますね。

今津 そんなに生易しいものではありません。現状は数字とマインドの板ばさみです。今、急務としているのは不採算部門の整理・統合です。不況の時こそ内部を充実させて基本に戻ろうと社員を激励しています。

‐‐最後にこの冬のカニ商戦についてお聞かせ下さい。

今津 初値は去年より安かったのですが、こんご漁獲量は減ると見られるのでいずれ高値になります。三年前は安かったので食べ放題が流行しましたが、それも少なくなると思います。

‐‐ますますのご健闘をお祈りいたします。ありがとうございました。

創業者今津芳雄氏の二男として昭和25年誕生。その性格は実直な兄文雄氏((株)かに道楽社長)と相対し“奔放”と言われる。自身でも「私にぴったりの役どころはナンバーツーで、しかも出先の長」と分析している。天性の感性の鋭さと柔軟さから老舗に新風を注ぎ続け、新天地東京の発展を牽引、パートも含めた従業員約九〇〇人、グループ全体の約三割を売上げるまでに成長させた。(文責・福島)

購読プランはこちら

非会員の方はこちら

続きを読む

会員の方はこちら