シェフと60分 レストラン「キハチ」総料理長・熊谷喜八氏
フランス料理でも日本料理でも中華でもない独自のキハチ料理を、「洋風うまいもの屋」として展開したのには、一つのキッカケがあった。
葉山のラ・マーレ・ド茶屋の時代、請われて台湾へ一年半、技術指導に行き「大きな挫折感を味わった」という。
向こうでの野菜は寄生虫が付いている、海の魚は流通事情が悪く半分腐りかけている、鶏は若いのや年とったのが入り交ざっており、豚は身が硬い。おまけにフランス料理には付き物のワイン、クリームがない。
「自分は、ワイン、クリーム、バターがないと料理ができなかったのです」
ところが、一歩街に出ると、同じ食材で作ったものが生き生きとした料理となっている。
「あの筋張った鶏が、ものの見事なスープになっているのです。挫折ですョ」と述懐する。
フランス料理と日本料理は、最高の素材、旬の新鮮な素材があって云々と言うが、中華は、最高の食材は無に近いもの。フカのヒレ、燕の巣など、もどして食べても無味に近い
「この無に、どう味付けするかが技術」であり、フランス料理、日本料理とは根本的に違う。
台湾での体験を機に、「僻地でもできる洋風料理を作ることが、キハチ料理の原点」として常に柱に据えている。
「いろいろな欲望がある中、人間は行き着くところウマイものを食べたいという食に対する欲望になる」と言い切る。
その証がアメリカである。人種のるつぼと言われるだけに、日本人街、インド人街、中華街、ユダヤマーケットなどには、その国の食が完璧なまでに揃えられている。これは、いかに自分の民族の食に対する欲望が強いかの表れだ。
「私自身、昔は外国へ行った時、味噌、醤油がなくても平気だったが、今では同じものを食べていたら死ぬかと思う」
しかし次の世代では民族もさまざまにミックスされ、嗜好も多様化してくる。こうした流れに対応し、フランス料理、イタリア料理、中国料理、日本料理などが微妙にミックスしたボーダーレス料理が増え始めてきた。
「食の本質は、うまいかまずいかです」。この本質を捉えれば、今までのフランス料理に固執せず、ボーダーレスの「洋風うまいもの屋」、つまりキハチ料理と位置づける。
このキハチ料理をひっさげ、一番店を目指し、長年の夢であった東京の銀座ではなく、日本の、そして世界の銀座に出店。世界に目を向けたレストラン企業にしたいという。
「素材に優る調理法はない」と言われるが、自身はフランスから帰国後、「素材を知る必要性、見直し」を一貫して説き、自らも実践してきたと自負する。
フランスについて言えば、地方では身近なところに自然があり、素材に近づけ、都市部でもマーケットが近い場所にある環境だ。
日本では、どうだろうか。「かつて私が、豚小屋に行ったりすると、料理人が何しに来たのかとウサン臭そうに見られた」
また、今でこそ有機栽培、無農薬野菜と喧伝されるが、「今ほど言われる前から農家の協力を得、作り手との細いパイプを安定した太いパイプにするべく、さまざまな努力をした」ともいう。
端境期という問題から代替品使用のやむなきを得、一〇〇%は無理としながらも、「素材のこだわりブーム」が、消費者、生産者へさらに大きく波及し、有機栽培、無農薬野菜をうたわなくても、ごく当たり前に流通させる時が来ることを願い、地道に活動を継続させている。
「銀座の一番店としてやっていくには、まず人がいてくれなくてはいけない。それには要となる厨房の労働環境を考えざるを得ない」
厨房は、キツイ、キビシイ、キタナイの3Kと言われているが、キハチ銀座店は、オープンに当たりオール電化厨房にした。
コックコートの前の打ち合わせがシッカリ二重になっているのには、いくつかの理由があるという。
その一つに、火を炊き温度が上がる一方の厨房内では、汗をかくことおびただしい。この汗を吸うのが内側の打合わせ部分というわけだ。
暑いのが当たり前であった厨房を、どうして暑いのかを徹底分析の結果、「電化厨房にせざるを得なかった。使い勝手は慣れ、人間は順応性がありますから」。
こうした切り替えをやってのけるのも、常に企業家として時代の変化を見据えると同時に、銀座店を一〇年勝負と構える姿勢があってのことだ。
文 上田喜子
カメラ 岡安秀一
昭和21年東京生まれ。昭和37年銀座東急ホテル入社。昭和44年フランスに渡りセネガル・モロッコ大使館料理長を経て、パリのマキシム、ホテルパヴィヨンロワイヤル、ジョエル・ロビュション率いるホテルコンコルドラファイエットで修業を積む。
昭和50年帰国、南青山シルバースプーン料理長、昭和52年葉山のラ・マーレ・ド茶屋料理長、昭和62年(株)キハチアンドエスを設立、代表取締役総料理長として現在に至る。
かたや、食の企業化を目指すキハチアンドエスの企業家として、かたや南青山の本店をはじめ、銀座、相模原、福岡の各チェーンでの料理部門責任者として多忙の中、銀座店では料理教室も開講、主婦の間では大変な人気。
かつてフランスより帰国時、決意した“一番の店”を、世界に知れた地、銀座で花咲かせたいと語る。柔和な笑顔ながら企業家の語り口だ。