ようこそ医薬・バイオ室へ:楊貴妃が愛した香り「麝(じゃ)香」

1997.01.10 16号 8面

高校生のころだから随分昔のことだが、漢文の教科書の最後に白楽天の「長恨歌」が載っていた。楊貴妃が玄宗皇帝の寵愛を受けて栄華を極めるが、安禄山の反乱で殺され、玄宗がその魂を探し求めるという筋である。漢文の最後の授業で、先生の泣かんばかりの講義に、いたく感動したのを覚えている。

で、その楊貴妃が愛した香りが、「麝香」(じゃ香、ムスク)で、身体全体に麝香を塗りこんでいたという。

麝香は麝香鹿の腹部にある性腺香嚢からとる。サンスクリット語でムスクとは睾丸の意であるが、確かに近くにあるので見間違えたのであろう。この香嚢を切り取って乾燥させたものが麝香で、一頭からわずかしか取れず、天然の麝香は極めて高価である。

麝香鹿は普段雌雄が別々に暮らしているが、交尾期が近づくと雄は麝香を分泌して雌を引きつける。麝香鹿の徘かいする道筋の要所要所ににおい付け(マーキング)を行う。

たまたまその近くを通りかかった雌は、そのにおいをたどることによって雌雄同士が巡り合うのである。ムスクを表す麝香という漢字は、鹿の放つ香りが矢を射るように遠くまで飛ぶという意味らしい。

麝香は香料として有名だが、もともとは漢方薬として使われ、中国最古の薬物書には朝鮮人参と同じ「君薬」の範ちゅうに入っている。中国では、強心剤、コレラの予防、神経衰弱、ぜんそくに効果があるといわれ、媚薬や精力剤としても用いられていた。

実際なめると身体がカッカとほてってくるらしい。日本でも六神丸や宇津救命丸に配合され、強心剤や小児五疳薬として使われていた。ただし、ワシントン条約以降、麝香鹿の保護がなされているので、現在も麝香がこれらの製品に使われているかは寡聞にして知らない。

いずれにしても、天然の麝香は大変高価なので、一〇〇年ほど前から人為的に合成しようという研究が盛んに行われた。

その結果、ムスクから香りの主成分であるムスコン、シベット(麝香猫)からシベトンという大環状の化合物が分離され、それらの合成法も開発したスイスのルジチカ博士は一九三九年にノーベル賞までもらっている。それほど貴重な研究だったわけである。

で、現在のムスク系香料は有機化学、石油化学の発展により、ほとんど合成香料で賄われている。

「エッ、石油から?」

とどこかのご婦人から嫌な顔をされそうだが、まさかかわいい麝香鹿を、年に何万頭も殺すわけにもいくまい。

現在、合成ムスクは香水だけでなく、香りを長持ちさせるためにリンスやシャンプー、洗剤などに少量ながら幅広く使われている。

合成ムスクには大きく分類して三種類あり、最初に開発されたニトロムスクは発ガン性があることが分かり、現在はほとんどの国で使用禁止になっている。現在の主流は多環ムスクで、安価だが、きっちりした分子構造を持っているため壊れにくく、生分解性がない。人体には影響ないが、その後蒸発すると環境上問題があるので、欧米で使用制限の動きが出ている。

一方、最近見直されているのが、天然ムスクに近い化学構造を持ち、生分解性がある大環状ムスクで、環境に優しいムスクとして注目されている。

少し手前味噌の宣伝をさせてもらうと、当社はJOMOのガソリンスタンドで油を売っているだけでなく、シクロペンタデカノン(CPD)という大環状ムスクをバイオ技術を使って生産している。シクロペンタデカノンなんていうと養毛剤のような名前だが、構造的には若干異なる。

化学名を使わずして、その工程を説明するのは難しいので省略するが、要は酵母が灯油留分を餌(えさ)にして長い炭化水素の酸を作り、それを化学的に巻いて環状にして大環状ムスクにしている。何だかややこしそうだが、大麦とビール酵母を混ぜてビールを作るようなものである。

CPDは香りが高貴で強いのが特徴で自信作なのだが、いかんせん少し値段が高いために、マーケットの立ち上がりが鈍いのが悩みの種である。

ところで、最初の楊貴妃に戻ると、日本に逃れてきたという伝説があり、山口県にはその墓まである。

また、京都の泉涌寺には玄宗皇帝から贈られたという楊貴妃の観音像がある。わざわざ自分の奥さんの像を異国にまで送りつけるというのもスゴイ話である。

「贈られた方も扱いに困っただろうね」

と妻に言うと、曰く、

「私のも、どっかエエとこに送ってな」

やはりこれは楊貴妃の方から言い出したことかもしれない。

((株)ジャパン・エナジー医薬・バイオ研究所=高橋清)

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