秘密のインカ道を行く!あふれる農と食へのこだわり

2002.02.10 78号 2面

「インカ道」とは、インカ帝国の勢力が絶大だったころ、併合した近隣諸国に縦横無尽に建設した石畳の道路網のことだ。総延長は四万キロ、地球一周分の長さでいまのエクアドルからチリまで、つまり帝国の北端からかなり南までつながっていた。首都のクスコが心臓ならば血管の役目だったインカ道。だからインカ滅亡と同時に、道もまた滅びてしまった。ところが実は、謎の遺跡や財宝同様に謎の道があり、それは現代でも残っている。今回の松尾氏の提案は、そのビルカバンバの山道を日数をかけて歩き、インカの人たちの食した物や生活、とんでもない高地であれだけの文化を築いた不思議さを解明していこうというものだ。

○一日目

スタートはクスコから八二キロ離れた標高二四〇〇メートルの地点だ。きょうは標高三〇一〇メートルのワイリャバンバを目指す。吊り橋を渡り、歩き始めた道は乾燥し土煙を上げる。乾燥地特有の針のような葉を持つ灌木やサボテン越しに道を振り返ると、真っ白な雪を被ったベロニカ峰(五八九四メートル)が思わぬ目の前にそびえていた。土煙と雪、このギャップに大きさを感じる。見下ろせば整然と構築されたアンデネス(段々畑)が美しい。

クスコの西一〇〇キロメートルにわたるこの地域は、「ビルカバンバ山域」というが、取材班がそもそも気になっているのがこの地名だ。「食からの健康」がテーマの本紙では世界の長寿地域の情報を集めてきたが、まさにこの名前は世界の三大長寿地域であるエクアドルの村と同名なのだ。そうはいっても両地域は約一二〇〇キロメートルも離れている。「その村の標高は一五〇〇メートルか。なるほど関連があるかもしれませんね」。前を歩く松尾氏は、背中越しでこの質問に答えた。「でももう少し、この道中を歩きながら考えていきましょう」。

インカ帝国は一五三二年、時の皇帝が捕らわれスペインの支配下に入ってから四年後、各所で反乱戦争を起こし、これは三六年間も続く。その間の帝国末期の都、ビルカバンバ・ビエハ(インカ族最後の隠れ場所)はこの山中のどこかにあり、そこにはいまも黄金の財宝が隠されているという。

狭い谷間の村ワイリャバンバには三時過ぎに到着。キャンプ料理は、アンデス料理研究家の本領発揮だ。コック役にてきぱきと指示したメニューは、ペルーの新鮮な野菜がたっぷり。どれもおいしかったが、何より驚いたのはクイのあぶり焼きが出たことだ。

クイはモルモット科の小動物で、この地域では各家庭で常に何十匹か飼っていて、来客があった時に調理する。腹に香辛料や塩をつめその姿のまま丸焼きにする。なんとこのクイの飼育と調理はエクアドルのビルカバンバでも全く同様に行われている。山中での貴重なタンパク源であると同時に、肝臓や心臓、腎臓などの内臓には血圧を下げる働きのあるタウリンが豊富に含まれているのだから、丸焼きの調理法は非常に理にかなっている。名前だけではない。両エリアは食の知恵を共有している。チチャ酒を飲んで考える。アンデスの夜はふけていく。

○二日目

早朝、まだ肌寒い谷に、晴天を約束する朝日が照り始めると急に暖かくなる。今日は標高四一九八メートルのワルミワニュスカ峠を経てパカマユに降りる一日だ。三七七八メートル、ちょうど富士山の高さを越えたあたりから徐々に樹高が低くなり視界が開け、峠まで続く一筋の道が長く望まれる。見えているものほど遠い。インカの文化には車輪がなかったので、人々も同じくこの道を歩いたはずだ。神である太陽と同形の車輪を踏みつけることはできなかったからともいわれる。黄金を宝としたのも貨幣価値でなく、太陽の汗や体液と考えたかららしい。

峠近辺では一旦、植物が消えた。下りにかかるといよいよ石畳が現れた。インカ道だ。しっかりと敷き詰められた石畳は、とても七〇〇年も前に作られた物とは信じられない。間もなく水音が聞こえて来た。いつの間にか左右には木が生え、合間から豪快に水を落とす滝が望める。そう、ここはあの大アマゾンの源流地帯、三〇〇〇メートルとはいえ緑が濃くて当たり前なのだ。わずかに道がなだらかになると白いテントが見えてきた。

今日のメニューではキヌアとジャガイモのミルク煮が登場(5面にレシピ)。キヌアは食物アレルギーやアトピーに悩む人のアレルゲン除去食として日本でも注目されている。コメ・麦とは比較にならないほどの鉄分・カルシウムが含まれる。「こんな素晴らしい食材なのに、スペイン征服後は邪教の食べ物として種が焼き払われた歴史があります。難を逃れた一握りの種が別の場所で実を結び、子孫を残したんです」。松尾氏のレシピを味わいながら、生理活性機能を持つ食材はやはり運も強いのだと実感する。

それにしてもインカの人たちの農作物を作る姿勢は真摯で勤勉だった。「反乱戦争を起こしたその年、戦況はインカ軍にとって悪い状況ではなかった。クスコのインカ軍は二万人超、対するスペイン軍は三〇〇人足らず。しかし包囲半年を経た8月、兵士たちはなんと撤退を始めてしまった。混乱下の状況で食物貯蔵庫はカラになりつつあり、そんな中で6月のトウモロコシの収穫はあきらめたものの、この種蒔きの時期をやり過ごすことはできなかったからです」。これでインカ軍は最後の隠れ里に撤退していくことになる。

○三日目

きょうも峠越えがある。インカにとって神聖な意味を持つ半円形の形をした遺跡ルンクラカイを過ぎ、三九九八メートルの峠に登るとまたほとんど木がなくなった。しかし、下り始めればすぐ植生が変わる。石積みの壁にランのような花が咲いているサヤックマルカ遺跡には、木をくりぬいたり、石を丁寧に並べて作った水路が残っている。こんな遺跡の有り様を見ていくと、この道が決して帝国の末期に即席に造られたものではなく古い時代からあり、そのころさらに整備されたものであることが分かる。

プユパタマルカの丘で、コカ茶を飲みながら来た道を思い出し楽しい会話が弾む。そのうち、周りの景色を遮っていた雲が動き始め、まるで劇場の幕を開けるように、ビルカバンバ山群の盟主サルカンタイ(六二七一メートル)が姿を現した。沈み始めた太陽が、サルカンタイの山ひだを白く、金色にそして赤くと刻々色を変え照らしていく。日が陰り蒼くなるまでその姿に見とれていた。さあ明日はあの有名な失われた空中都市、マチュピチュに到着する。

標高二二〇〇メートルの斜面には巨石を積み上げたおびただしい遺跡群があるという。それは何のためのものであるのか。「難攻不落の要塞施設」「太陽神をあがめる宗教施設」など様々な説があるがはっきりしたことはいまも分からない。自分なりの答えを出すためにたくさんの人がそこに向かう。こちらがずっと考え続けていることへの答えも、そこにあるのだろうか。

○四日目

マチュピチュに至ったのは目標の昼を過ぎて午後2時。お腹は空いていたが「これだけは先に見に行きましょう」と、松尾氏は遺跡群の中、一つの目標に向かって進んでいく。それにしても遺跡群の中にいると人間の労力の偉大さを感じざるを得ない。「ここがあのビルカバンバ・ビエハではないのでしょうか」。「二〇世紀の初め、米の考古学者ビンガムがこの街を発見してから五〇年はそういわれてきましたが、結局ここには黄金の財宝もなかった。いまはそれはもっと山道の奥深くだろうとされています。さあ着きました」。

これはガイドブックで見た「天文境」のはずだ。「そう、一般的には水を張って映した宗教儀式用の天文境、あるいは日時計といわれています。でも僕は違う見方もあると思う。薬草を干して敷いた、つまり薬研の石臼ではないかと。ビルカバンバのビルカはケチュア語でアカシアとされますが“薬”という意味もある。バンバは広場です」。

エクアドルの長寿村も“薬の広場”だったとしたら、それは何を意味するのだろう。エクアドルの首都キトは標高二八〇〇メートル、ペルーのクスコは三三六〇メートルの乾いた都市だ。それに対し、双方のビルカバンバはともに一〇〇〇メートル以上低くアマゾンのジャングルとの境界線にある。この山旅も高地の半砂漠から峠を越えるたびに標高を下げ、亜熱帯エリアに至った気候帯の境目を歩く行程だった。

なぜインカの人たちは東西南北に領土を拡大し、さらに危険を冒してこんなジャングルまでやってきたのか。「アンデス中腹の人々が暮らす街ではジャガイモやトウモロコシを育て収穫したが、それだけでは食は豊かにならない。西の海に向かえば魚が得られる。それからジャングルとの接点ではアマゾンの民族と交易ができ、香辛料や薬的な食材が得られたはず。そうしてインカの人たちは自分たちの食を豊かにし飢えや貧困をなくした。エクアドルのビルカバンバもインカ帝国がもっとも大きかった時、そんな文化の波を大いに受けているエリアのはずです」。

インカの人たちの二一世紀への贈り物は黄金や石畳ではなく、食の恵みを味わう心、食を薬にしていく生活術かもしれない。秘密のインカ道はビルカバンバ・ビエハに向かって、まだ続いている。けれど松尾氏に連れられての「インカの奥の細道」はここで終了してもいいだろう。

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