シェフと60分 マグロを知り尽くした男「末廣鮨」店主・望月栄次氏
「マグロを一本で買うようになり、いかに無駄を出さずにお金にするか自分で勉強するしかなかった。人についてやったのでは、しょせんはほかの人もやっていることになりますから」と語る言葉に何のてらいも感じられない。
製紙の町として栄えた吉原市の魚民での修業時代、良いものを仕入れてすべてを売り切り、無駄を出さないよう親方から徹底して仕込まれたマグロへの基本姿勢だ。
東京の市場では良いもの、欲しいものが手に入るが、法外な価格。これを仕入れてきてそのまま売るのでは面白くない。また売れるのは腹の所で背中や尻尾は売れずに捨てられている。こんな無駄はせず、一本まるごと買い、まるごと商品化すれば平均した値段になると思っていたところ、地元の清水のミナミマグロ業者と知り合い、直接仕入れが始まった。
店内に入るとすぐ目に付く解凍・冷蔵庫。カウンター上にドーンと鎮座している。「このケースはうちが最初に作ったもの。もしほかにもあったらうちのまね」という自慢のケース。店の看板でもある。
一週間に一本を使うマグロは、特別に保管されている業者の冷蔵倉庫から必要部分を持ち帰り、解凍後、ケースに保管される。
頭から尻尾まで捨てるところがないというマグロ料理。皮からスジまで徹底して生かしている。
ただこうした料理を出しながらも「料理屋は頭を焼いたりスジを炒めたりも良いが、うちはすし屋。それだけを食べるところではない。やりすぎてはいけません」と、あくまでもすし職人の姿勢を崩さない。
五年前、養殖マグロをプロの目で見て欲しい、ミナミマグロと比較して欲しい、との要請があり、関西の研究所に出掛けて行ったことがある。
確かに脂は赤身も含めた全身にのっている。「金額的なことを考えれば、二一世紀はこういうものが主流になる時代が来るだろう」と全面否定はしない。
かつて独立し自らの店をもった時、これからは「トロの時代」を予見するが高い本マグロは使えず、半値に近かったミナミマグロ(インドマグロ)に代替、今ではミナミマグロ基地の清水市の看板店としてその名をはせている。
ニセモノが七〇%以上になれば、逆に本物がニセモノになることもある。本物の味を知る人があと何十年生きているかなどを考え合わせれば、すべてが加工品になる可能性もあり得る。
現在、刺身ネタのタコ、イカなどは冷凍輸入品がほとんど。
「うちは地ダコしか扱っていないが、あるお客からかみ切れない、ほかの所で食べたのはサクサクして切れたのに、お前の所のタコはおかしい」と言われたこともある。
「今の日本人はあごが弱くなったんですね、硬いものを食べなくなりましたよ」と苦笑する。確かに料理番組の評として、軟らかいとか甘いが褒め言葉になってきた。「本物を追求する言葉がない」のを残念がる。
故郷の静岡に帰るのを思いとどまり清水に店を構えたころ、隣近所の住民のひいきで店の基礎ができた。だんだん評判は広がり、隣町からも足を運ぶ客が増え、地元の宴会場として結婚式にも使われるようになってきた。
この思い出の店舗から規模を拡張した現在の店舗に移り、さらに三年前の大増築で店の規模が大きくなればなるほど近隣客よりも遠来の客が増える商圏のドーナツ化現象が現れた。
「寂しいけど、一方でそれだけ大きく伸び、新しい客層が広がっているんだと自分自身を納得させているんです」
昔三〇~四〇代だった客が今では五〇~六〇代。孫を連れての来店に「一〇年後にはうちの客、障子に穴を開けられても我慢の子」と笑いながらも、清水のマグロの店として生涯現役を通す腹積もりだ。
「マグロは生が一番、冷凍物は品が落ちると決めつけられているが、とんでもない。実際に食べてから言って欲しい」と世の常識に反論する。
その昔、冷凍技術が不十分な時代では、どこで捕れ、どこの船で運んだかが品質の良しあしの大きな目安とされた。しかし冷凍技術が発達した現在では、マイナス二〇度Cの世界からマイナス五〇~六〇度Cと著しい進歩を遂げている。冷凍物は良くないと一言では言えなくなってきた。
本マグロが12月~3月の北海道・利尻のものならいざ知らず、時期を外した夏場の巻き網で捕獲し、マグロ同士がぶつかりあって傷だらけになっているものも生でもてはやされている。「すべて生が良いとは言い切れない」
かつてはマイナーだったミナミマグロも、真価がマスコミで取り上げられ、市民権を得てきた。
ハレの日の食べ物であったすしが大衆化し、いつでも食べられるようになり、「すし屋の看板を出すなら中途半端はいけない。大量に握って出されるものに反し、うちはミナミマグロ基地の清水だからこそできるすし屋、土地柄にあった伝統を守ったすしを握っていきたいですね」。
マグロの歴史とともに歩んだ望月店主の実感だ。
◆プロフィル
昭和16年、静岡市生まれ。八人兄弟の真ん中。家業のすし屋を小学校時代から手伝う。上の兄たちが神田のすし屋で修業、同じ所よりはと自らは製紙で栄える吉原市の「魚民」で一〇年修業。
学費を払わず修業ができる身分に感謝しながらも、一五歳はまだ子供。つらくなり実家に帰ること二度三度。実家では出したからには引き取れないと戻され、この時、すし職人の道を歩むべく腹を決める。
修業中は、芸術面で造詣の深い親方から料理だけでなく、置物、絵など調度品の感性も学びとる。二五歳でコツコツと貯めた軍資金一〇〇万円を元手に静岡市で独立。三年後、一度は故郷に帰ることも考えたが、兄弟のすすめで、マグロの本拠地、清水市に居を構え、以後ミナミマグロと切っても切れない深い関係となる。現在では、マグロを丸ごと一本使いこなす名人として、その名は全国に知られている。
◆所在地=静岡県清水市江尻2-5-18
電話=0543・66・6083
文・カメラ 上田喜子