そばレストランの事例研究 「長寿庵」 花柳界相手に出前商法が大当たり

1992.12.21 18号 14面

「長寿庵」は現在、東京を中心に三八〇店が営業中であるが、元禄(約三〇〇年前)のころ、当時の京橋竹川町で倉橋又次という人物が店を出したのが創業といい伝えられており、その後、明治10年になって松村甚次郎氏が浅草橋場町に店を移し、そして明治中期から大正にかけて、鈴木マス吉(浅草新畑町)、妥女会、吉田寅次郎(十日会茅場町)、村奈嘉与吉(四之橋会)の四つの“のれん”が、それぞれ独自の店づくりを始め、現在に至っている。「のれん」は一本ではなく分裂して、それぞれによって店舗が展開されてきているのである。

長寿庵両国本店は、鈴木マス吉氏の流れをくむのれん分店で、現在二代目の五十嵐實氏が経営する。

長寿庵両国店は、確かなことは不明であるが、明治40年ごろ五十嵐友五郎氏が、のれん分によって創業した。初代五十嵐氏は昭和40年に他界したのであるが、二代目の實氏は昭和34年ごろには経営を引き継いで、そばづくりに邁進してきている。

もっとも、二代目五十嵐氏の話によると、兵隊から戻って昭和25年ごろには家業を手伝っていたといい、そこから数えると、そばづくりはすでに四〇年以上におよんでいる。

「さすがにもう年ですからね、いまは店の方は息子たちに任せて、私自身は経営の面をみています。でもね、人の問題やら営業の面やらで心配ごとはつきないんです……」(五十嵐實氏)。

二代目はまだかくしゃくとしていて、そばづくり、店舗経営には独自の考えをもっているのであるが、もう現場からは引退したといい切る。

両国長寿庵にはすでに一〇〇店以上ののれん分店があり、本店としてこれを束ねて、互いに勉強し合い、発展していくことも大事なことだという。

そば粉はカナダ、中国産、国内産とあるが、風味がいいので北海道産のものも多く使っている。しかし、使うそば粉にはつなぎを入れている。そば四割、つなぎ六割、メニューによっては五割、五割という場合もある。単価が安いので、材料の選択をリーズナブルなものにするのは当然のことであるが、麺はすべて手づくりである。

麺は今日使う分、消費する分を作る。一切作り溜めはしない。そば、うどんの定番メニューはもり、かけ、ひもかわ四五〇円、たぬき、きつね、きしめん五〇〇円、ざる、花まき五〇〇円、おろし、月見、わかめ六〇〇円、おかめ、あんかけ六〇〇円、かき玉、玉子とじ、山かけ、とろろ六〇〇円など、ほぼ三〇品目をラインアップしている。

このほか、中華分野では中華そば四五〇円、野菜中華六五〇円、チャーシューメン六五〇円などがあり、また季節メニューとして、柳橋以来のナベ焼うどん一〇〇〇円、けんちんそば六五〇円、なめこそば六五〇円、山かけそば六〇〇円など七、八種類をラインアップしている。

けんちんそば(六五〇円)は人気メニューの一つで、ニンジン、ゴボウ、シイタケ、ネギ、ミツバ、モチ、トリ肉などの具が入っており、ボリュームもあっておいしい。そば汁およびダシ汁は、かつおとこんぶのミックス。これも作り溜めはしない。今日作った分、今日使い切る。

客単価八〇〇円前後。店舗は約五〇坪、客席数三二席の規模であるが、フロアは二分して、片面においては洋食メニューも提供している。昭和36年に木造建て店舗をビル化(地上五階、地下一階)したときに、隣接で営業していた洋食レストランを吸収一体化したのである。

つまり、ワンフロアで和洋の店舗が共存するという形である。共存といえば、このほか、両国本店に加えてはパレサイドビル店、東京海上ビル店の直営店があり、共に順調な実績を上げている。売上げは三店合わせ三億円(九一年度実績)。それなりに成功を収めているそば屋といえる。

「長い伝統がありますから、この信用を財産にして客に飽きられないよう、また新たなお客さんにきていただけるよう、いろいろとメニューでも、たとえばサラダうどんというように、工夫を凝らしていきたいと思います」(五十嵐博之店長)。

長寿庵両国本店は創業時から両国橋の袂にあった関係で、周辺の柳橋や浜町など花柳界の小料理屋、料亭相手の“出前商法”を永くやり、大きな信用を得ていた。

昭和24、25年ごろには経済統制もゆるやかになってきたころであるが、花柳界も勢いを取り戻し始め、夏はざるそば、冬は天ぷらそば、ナベ焼うどんと、そば、うどんの注文が(出前)が殺倒した。

天ぷらそばには海老を入れたので大変な人気を得た。「えび天ぷらそば」の誕生で、これは両国店のオリジナルのそばメニューであった。いまではこのメニューは珍しくなくなってしまったが、当時は花柳界の客、旦那衆はとくに冬になると、このそばメニューを注文した。

このため、出前用の自転車が三〇台、出前担当の小僧さんが六〇人もいたほどで、店は大変な繁盛ぶりであった(五十嵐實氏)。当時の柳橋界隈の客層は政財界人が主流を占め、飛ぶ鳥を落す勢いであったので、柳橋、浜町がはやれば、長寿庵(両国店)もその恩恵を受けるという図式が成立していた。

しかし、この図式は昭和29年半ば池田内閣時代に起った政財界融着の造船疑獄で、終りを告げる。柳橋花柳界にこういったおエラ方がバッタリこなくなったからである。柳橋の灯は細り勢いがなくなってしまった。

「この煽りで店の方の経営もおかしくなって、ずいぶんと苦労しました。そこで、私は大いに反省したのです。おエラ方相手の商売はもうこりごりだと、それで私はこれを契機に大衆相手の薄利多売の商に切り変えていこうと決心したのです」(五十嵐實氏)。

しかし、ラッキーなことに昭和40年代に入って繊維、アパレルブームが起って、近接地の馬喰町や横山町などの繊維街から出前の注文がくるようになり、その繊維景気でピンチを脱出することができたのである。

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