DATAにみる外食マーケット動向 弁当FC=不況の中で成長するしたたかさ
持ち帰り弁当のFC(フランチャイズチェーン)は、一九七八年(昭和53年)から始まった。それ以前にも、おにぎりを販売するFCや惣菜店が弁当を販売するという形態はあったが、持ち帰り弁当専門店が登場したのは「ほっかほっか亭」がスタート(七八年6月)してからと言ってよい。
ほっかほっか亭は、FC開始後一年半で一二〇店舗まで広がる。このように急速に展開できたのは、作りたての温かい弁当が消費者にうけたこと、高品質の商品を安い価格で提供したことが第一の要因。さらに、加盟店が開業するのにそれほど資金を必要としていなかったこと(一〇坪の店舗で投資額は五五〇万円=物件取得費は別)、二等地や三等地でも商売になったことが要因であった。ちなみに、この投資額に対して、当時は月商三五〇万円、粗利率四五%、純利益率二〇%という状況であった。資金回収が極めて容易であったわけである。
その翌年から弁当チェーンは急増する。八七年までの四年間に二四チェーンが新規参入し、三〇チェーンを超えるまでになった。急にチェーン数が増えたのは、ほっかほっか亭の元加盟店やスタッフ、あるいは同社の取引先である業者(工務店、食品問屋)が自ら本部を設立し、FC展開を始めたこと。また、ほっかほっか亭の成功をみて、弁当チェーンを創設する企業が後を絶たなかったからである。低投資・高回収率は、一方ではモノマネされやすいという欠点をもっていたわけである。
このように爆発的な膨張をみせた弁当FCだが、八四年ごろから急坂をころげ落ちるように後退する。その最大の原因は、急激に増えた弁当店同士の激しい競合にある。競合店ができたために、売上げが半減したという例は数えきれないほど出現した。その結果、本部が倒産(八四年中に二社)というケースも出てきた。倒産しないまでも、チェーン活動を凍結しなければならなくなったところは数知れない。
弁当チェーンを襲ったのは同業者だけではない。八五年前後といえば、ファストフードやファミリーレストランが急成長している時期であり、もう一方で、コンビニエンスストアが本格的に米飯商品を強化しつつあった時代であった。セブン‐イレブンは七九年ごろからおにぎり・弁当などを扱い始めた。同チェーンが弁当類を全国全店に導入したのは八六年10月だが、このときセブン‐イレブンは二五〇〇店舗に達していた。これに二〇〇〇店規模のローソン、一〇〇〇店規模のファミリーマートが続いたから、弁当マーケットは一挙に激戦場となってしまった。弁当チェーン同士の競合に生き残れたところも、これら他業態からの攻撃には耐えられなかった。
ここでちょっと誤解を解いておきたい。それは、現在の弁当店はコンビニと十分わたりあっているということ。ほっかほっか亭の田渕道行社長は「コンビニが四店できれば、そこに弁当店一店の立地が誕生したことになる」といい、かえってコンビニのマーケットを侵食していると証言している。
弁当チェーンが減少したもう一つの要因は、チェーンオペレーションの本質を知らず、ただやみくもに店舗を増やしていったところにもある。現在最大手チェーンであるほっかほっか亭も、一五〇〇店ほどを運営していた八四年2月、ダイエーと広範な業務提携を結び、チェーンオペレーションのノウハウと資金・人材を導入してようやく命脈を保つことができたのである。それほどチェーンオペレーションは重要なノウハウなのである。脱退した元加盟店が本部を始めたり、モノマネで本部事業を興した企業がチェーンオペレーションを身につけられるとは到底考えられない。結局、大手チェーンやコンビニに圧し潰されてしまった。
八五年以降の三年間は、チェーン数、店舗数ともに減少の一途をたどった。店舗数が増加傾向を示すようになるのは、八九年以降、つまり平成に入ってからである。バブル経済絶頂期にあっても堅調な成長を保ったばかりでなく、バブル崩壊後の大不況下でも手堅い成長をみせているのは、持ち帰り弁当店という業態のこれからの可能性を示しているのではないかと思われる。