5月16日。今日は旅の日
5月16日は日本旅のペンクラブが1988年に制定した旅の日。新暦1689年5月16日に松尾芭蕉が「奥の細道」の旅に旅立ったことにちなむ。 「奥の細道」には食べ物に関する俳句が数多く残されており、干ぴょうにまつわる作品もある。
剥く姿、干された町並みが絵や俳句の題材になった干ぴょう
(干ぴょうが)栃木県に入ってきたのは1712年 (約300年前)、江州(今の滋賀県)水口城主鳥居忠英(ただてる)公が、幕府の命により下野(栃木県)壬生城主に国替えになり、その旧領地の木津からユウガオの種を取り寄せて、領内数カ村で試作させたのが始まりとされている。
それまでは、壬生の領地は広く平坦地にもかかわらず産物が少なく、あまりにも生産性が劣っていた。そのため、忠英公は農業振興の重要性を痛感して、郡奉行の松本茂右衛門に命じ、ユウガオの種を黒川の東西にまかせた。そしてユウガオの栽培に成功したのが藤井村の篠原丈助であったといわれている。その後栽培地域が上三川町、小山市、下野市(石橋町、国分寺町、南河内町)、宇都宮市、岡市、二宮町、鹿沼市など栃木県の南東部に広がり、一大産地を形成するにいたった。
あまりにも有名な安藤広重作の東海道五十三次のなかで、50番目の宿場・水口に干ぴょうを干している絵がある。これは城主の加藤嘉矩(よしのり)公(鳥居忠英公と交代で国替え)が、壬生より干ぴょうの種を取り寄せて農民に作らせたとあり、現在ではこの干ぴょうが縁で、壬生町と水口(甲賀市)は姉妹都市になっている。
干ぴょう発祥の地、木津は昔、 干ぴょうを表す言葉として用いられていた。お寿司でキズ巻きといえば干ぴょう巻きのことを指す。
また、干ぴょうが詠まれている俳句がある。
夕顔にかんぴょうむいて遊びけり(松尾芭蕉)
かんぴょうむく弧村の風の 日暮れかな(尾崎紅葉)
干ぴょうは栃木県で栽培が広まったのだが、その理由の一つは土壌が適していたことである。ユウガオ(干ぴょう)の根は浅根性で 横に広がり、深根でも40cm位の深さで、旺盛な生育に多量の水分を必要とするため、保水力のある 土が必要である。根の発達のためには排水がよく軽い土が必要で、干ぴょうが定着した地域はこの条件に合っている黒色の火山灰土が広く分布(関東ローム層)しており、ユウガオの栽培に適していた。
もう一つには、気象条件にも恵まれていたことである。干ぴょうは7〜8月が生産期となるが、栃木県は雷(地元では方言でらいさまとよぶ)の名産地でもあり、夏のこの時期、日光や那須連山に発 生した雷が勢力を強めながら南東に進み、夕方になって干ぴょうの産地に雨を降らせる。この雨が灼熱の地表を冷やし、暑さに弱いと されている根の伸びをよくする。 またその水分は、ユウガオが開花してから2~3週間で収穫するふくべ(ユウガオの実)を太らせるため、干ぴょうにとっては恵みの 雨になっている(干ぴょう生産者は待ちに待ったその雨が降ってくると、お金が降ってきたとよく形容した)。
しかし、この土壌と気象条件だけで干ぴょう栽培が維持できたわけでもなく、もちろん農家の努力も要因の一つである。昔から干ぴょうは「夏の米」といわれており、秋に米ができるまでの 換金作物として、農家にとっては魅力のある作物である。特産物として高収入が得られていることもあり、生産農家数の維持、拡大へとつながっていった。このようなことで、栃木県の干ぴょうが日本一の特産品となり続けてきたと考えられる。
(日本食糧新聞社『食品産業事典 第九版』(引用箇所の著者:株式会社 谷野善平商店 谷野方昭))