稜線を越えて自分を越えて・それぞれのキリマンジャロ:神宮寺学さん
「二〇世紀中に、五〇〇〇メートル級の山に登る。それで、この四年間にひとつのけじめをつけたい」。神宮寺学さんがこんな計画を立てたのは二〇〇〇年の初めあたりだ。もちろん、国内にはそんな高い山はないし、簡単な話ではない。五〇〇〇メートル、しかも三〇〇〇メートル以上の標高差を自分の足で登る。この夢をもっとも実現できる可能性のある山として、アフリカはタンザニア、キリマンジャロを選んだ。
東京都下・JR駅前のカメラ店の二代目店主。大学時代はワンダーフォーゲル部でならしたものだが、繁盛する店の忙しさに追われて卒業後は山から遠ざかっていた。その神宮寺さんが登山教室「武蔵野自然大学」に入会、再び現役の ”山男“に戻ったのは一九九七年のこと。そこには深いいきさつがあった。
長男はアメリカ、次男はオーストラリアに留学。海外に憧れながらも、家業の跡継ぎとして地味な商売を背負わされた自分の経験から、息子たちの希望は最大限尊重した。「兄貴たちはいいから。俺が店を継ぐ」。一番親父似の三男がそう言ってくれたのが一九九六年の正月。勝手なことをやりながら大人の男に成長していく息子たちに囲まれ、神宮寺さんは最高の思いで年越しの祝い酒を味わった。それがその年の3月、親父似の三男は雪山で凍死した。単独行だった。どうしてそんなことになったのか、分からない。山登りに親しみ始めたのは知っていたが、厳冬期の雪山に独りで挑むほどのめり込んでいたとは。あるいは何か吹っ切りたい悩みがあったのか。「どちらにしても、俺がきちんと聞いてやらなかったからだ。山を教えてやらなかったからだ」。自責の念が身体中を覆い尽くす、そんな日々が続いた。
「いっそ、もう一度山を始めてみようか」。魂の抜け殻のような神宮寺さんが周囲の提案にようやく本気になったのは一年後、地方新聞の片隅にあった登山教室の案内からだった。それからは山にのめり込んだ。「そのうちに、あいつの気持ちが分かるかもしれない」。
キリマンジャロ登山は、一八〇〇メートルのマラングゲートから始まる。「これから毎日約一〇〇〇メートルの高度を登っていく。行けるだろうか」。山を再開する前も、ライフワークの「湖の写真」を撮るために三〇キロ近いカメラ機材を日常的に持ち歩いていた。体力に自信がないことはないが、高度には大いに不安要素があった。息子の死、山登りの再開。大きなプレッシャーの季節の一昨年冬、突然胸の痛みに襲われ、救急車でかつぎ込まれた。病名は狭心症。持ち前の豪放な親分気質から、山のクラブの中ですでに「この人がいなくては」という存在になっていたが、その後の登山は外面とは裏腹に、細心の注意をもって臨んでいた。
現地では、青年ガイド・リビングストーンが撮影機材のポーターとして、いい相棒になった。おかげでパーティーの前に後ろに、十分なフットワークがとれた。調子は悪くはない。現地入りしてから飲み続けている酸素摂取能力を高めるという漢方系の健康食品が効いているのか。メンバーのいい顔を見ると、どうしてもカメラマンの性(さが)が前のめりになる。
三男のことがあってからは「いまこの人の輝いている瞬間を、残しておきたい」という気持ちがさらに強くなった。嫌な心配事が頭をもたげた時は、胸のポケットの三男の写真とニトログリセリンに手をやった。
山小屋二日目。三七二〇メートルの夜は、長く、難しい。身体は疲れていても、あまりたくさん睡眠をとると呼吸が浅くなり、高度障害を早く招く。決めた時間まで居眠りをしないよう、知っている歌を順番に歌いあうゲームが始まった。「いつかある日、山で死んだら。古い山の友よ、伝えてくれ。母親には安らかだったと。男らしく死んだと、父親には……」。 ”山屋“なら誰でも知っている歌を誰かが歌った。ロウソクの薄明かりにヒゲ面が曇ったことを知られたくなくて、外に出た。南十字星が輝いていた。
入山四日目。どうにか快調だ。最終小屋(四七〇三メートル)キボハットに到着。ヒョウに吹かれながらも長いサドル地帯から後を乗り切った。後続パーティーの到着を望遠レンズで待ち望みながら、「あいつが力を貸しているのかもしれない」と思った。夜。しかし、その状況が暗転。リーダーが午後7時の寝しなに「必要な人は、自己判断で」とした利尿剤ダイアモックスが悪く作用した。頻尿を越えて、大事な仮眠四時間のうち四回起床。ハシゴのない二段ベッドを上下するうち、時間は過ぎた。
12時出発。四人のリタイア組が出て、これまで一緒にやってきた仲間に見送られることになった。「頑張らなくては」。見慣れたカシオペア座が逆さまだ。その逆さまダブリューの向こう、稜線に隠れた見えない北極星の方向を目指す。先頭の現地リーダーガイドのトレースはかなりの急登といっていい。といっても日の出前七時間で一〇〇〇メートルの高度を稼ぐには、このくらい当たり前なのかもしれない。しかし、苦しい。登るほどに重苦しくなる。悔しいが、とうとう胸に来た。2時、高度計の針は四九六五メートル。「これ以上頑張ったら、パーティー全体に迷惑が及ぶ」。リタイアを宣言した。
「OK。それじゃあ自分のペースであともう少しやってみては」。三年のつきあいになるクラブのリーダーの答えは意外なものだった。ピークを目指す先行パーティーと離れ、リーダー、神宮寺さん、リビングストーンで後続パーティーが編成された。一歩、また一歩。歩みは遅い。踏み出すたびにクラクラする。傍らに雪が出てきた。ヘミングウェーのいう”キリマンジャロの雪“ だ。赤道直下の土地の雪。随分高いところに登ってきたものだ。三〇分歩いたろうか、もう本当に限界だ、そう思ったのと同時だった。「さあ、神宮寺さん。僕の腕時計でここが五〇〇〇メートルだ」。リーダーはうなずくと、先行パーティーを追いかけて急ぎ足で上を目指した。
振り向けば、落っこちそうな赤い三日月が見えた。長男と同い年というリビングストーンと二人、帰り道。気まずさを紛らわそうと「君は結婚しているのか」と聞いた。「している。子供も二人いる。あなたは?」「息子が三人、いた」。神宮寺さんは話した。いまここにいる理由を。四年間の思いを。「これが、そいつさ」と胸に手をやり、「あっ!」と思った。「あいつだけでも、ピークに行かせたかったなぁ」。無口で愛想のない褐色の肌に光るものを浮かべていたリビングストーンは、写真をつかみ駆け出そうとした。しかしもう先行パーティーのライトは頭上、豆粒のように小さい。「もういい。いいんだ、リビングストーン。アイブ ジャスト ダン」。立ち上がり、そして一歩。五〇〇〇メートル三〇センチ。そう、俺はやった。あいつもきっとそう思っている。
(同行レポート 本紙編集長・石井美小夜/6面「女たちのキリマンジャロ」に続く)