エロスの贈り物 映画監督・河崎義裕 口説きのエクスタシー

1997.12.10 27号 19面

オリーブ、オレンジ、そしてぶどう畑と続くスペインの赤い大地は乾いていた。百年に一度という異常気象のために、秋だというのに日中は三五℃、ミネラル水を手放せない旅になった。旅の目的はスペインの風情が色濃く残るというアンダルシア地方を訪ね、長年の夢、アルハンブラ宮殿を見物することだった。

剣とコーランを振りかざしたアラブの騎馬隊は、わずか一ヵ月で、キリスト教徒を追い払った。勝ち誇ったアラブの王は快楽の極致を味わうために、砂漠の桃源郷・オアシスに似せてアルハンブラ宮殿を造ったという。シェラネバダ山脈からの雪どけ水が噴水のアーチを描き、花と緑が庭園に溢れていた。昼さがりの光の中、柱廊に囲まれたハーレムを凝視していると、王の悦楽に奉仕する美女たちの妖しい姿態が浮かび上がる。二世紀後、キリスト教徒に逆襲されたアラブの王はアフリカに逃げ帰った。この宮殿を去る日、極楽を夢見た王の胸中に去来したのは何だったのか。究極の悦楽を味わいつくした余韻か、栄光をつかんだ者だけが知る悲哀だったのだろうか?

アルハンブラ宮殿を見学した夜、私は流浪の民ジプシーのフラメンコを見た。フラメンコは哀愁と激情を肉体言語で刻む芸術といわれている。黒い髪のジプシーたちが、手と足をフルに使って激しいリズムを刻みながら踊る姿には鬼気せまる迫力があった。肉体と魂の奥深い所からせり上がってくる「魔もの」の叫びをカンテ・ホンド(深い歌)に感じた。

フラメンコの怒濤のような表現に圧倒されて、私はその夜よく眠れなかった。夜の冷気を吸おうとホテルのベランダに出た私は、舗道を歩く男と女に目を止めた。男は立ち止まり女の耳に一こと二こと囁いた。女は求めて口づけをした。男は女の腰に手をまわし、再び女の耳に囁いた。女は男の首にしがみつくようにしてキスをねだった。女の両足はほとんど宙に舞い、エクスタシー状態を告げていた。私は時間を忘れて、恋人たちの陶酔に見とれていた。女性を口説くことにかけては名人といわれるラテン系男性の中でもスペイン男性の口説きは達人の域にあるらしい。実際に口説かれた女性の体験談によれば、スペインの男性は全身全霊を傾注して、心とろかすような讃美の言葉を連発するそうである。「あなたの美しい髪の輝きで、私の目はつぶれそう」とか「あなたのようなすてきな女性を生んでくれたママにこのバラをあげて」とか、女心をしびれさせる言葉を、響きのあるバリトンで耳元に囁かれると、自制心がなくなって、私をどうぞ好きなようにしてという気になるものらしい。世界の美女をなで切りにしたドンファンもスペイン人なら、激情の女カルメンを口説いたのも美丈夫ドン・ホセだった。

私がスペインの男性に親しみを覚えるのは、その後だった。美しい文句で酔わせ、口説き落とした女性といざ一戦という段階に至ると、そのテクニックは三流に落ちるというのだ。口説くことに全精力を使い果たし、いざ本番という時には疲れているとでもいうのか。スペイン男性の恋の落差がほほえましく、友情すら感じてしまう。

スペインの夜明けは遅い。名残りの星がまたたく空の下、口説かれて、歩きながらエクスタシーを感じてしまった恋人たちの姿はもうすでに消えていた。

(写真も河崎監督が撮影)

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