2月6日。今日は抹茶の日
2月6日は愛知県西尾市茶業振興協議会が制定した抹茶の日。茶道では湯を沸かすのに風炉(ふろ)という道具を用いることから語呂合わせによって制定した。 抹茶は被覆下で伸育した芽葉を蒸して揉まずに乾燥させ、荒砕き後茶うすで微細粉にしたものである。
日本茶の歴史
茶の飲用は、古代中国で偶然の機会から始まったとされる。
唐時代には“陸羽”が茶の解説書ともいうべき「茶経」(760年)を著したことから、喫茶の風習が高まったといわれる。
わが国では、この時代遣唐使たちによって茶の種子とともに、作り方や喫茶法が伝えられたが、飲用は上流階級にとどまった。
奈良・平安時代には、茶の栽培や喫茶の記録が判然としてくるが、遣唐使の廃止とともに一時衰退したようである。
その後鎌倉時代にいたって、“栄西禅師”らによって、再び中国(宋)から将来され、わが国最古の茶書とされる「喫茶養生記」(1211年)が栄西によって著された。これは喫茶の効用を説き普及に貢献したため、業界では、“栄西”を茶祖として敬仰している。
“栄西”は、現在の抹茶の製法を伝えたようで、今日の茶の湯のもとをなした。 室町時代に入ると新興貴族足利氏によって、茶を儀式化し茶禅一味の哲理を生み、わが国独特の茶道文化を生むにいたった。
室町時代中頃には、釜で炒る製法が中国から伝わり、江戸初期には現在の煎茶の飲用も始まったが、形式にとらわれない喫茶法として大衆受けし、急速な普及をとげた。
1700年代に入り、蒸してから焙炉(はいろ)で揉む手造り法が始められ、これが現在の製茶法の基本となった。
茶器としての急須が用いられるようになった時期は明らかでないが、江戸中期には煎茶道が起こっているところから、これによってほぼ現在の喫茶法も定着したものと考えられる。
近代になると、横浜開港によって茶と生糸が重要輸出品となり、明治・大正期には産業の花形として脚光をあびた。
開港とともに茶業ブームが起こり、全国的に茶園の造成が行われ漸次、増産されていった。
茶の輸出はその後も続くが、第二次世界大戦以後になると減少する。昭和40(1965)年代に入ると国内需要が高まり輸入がふえ、高度な生産技術の開発導入にともない、優品の供給増が達成され1973(昭和48)年に国内生産量は10万tに達し輸入量は漸減した。
2011年の国内生産量は約8万2,000tで、輸入量は5,400tとやや減少している。嗜好の多様化・生活様式の変化により、ペットボトルや缶ドリンクあるいは粉末タイブのほか機能性を利用した新商品類が出回り、多用途化の時代となったが、一方で香味を重視した本格的志向の需要も高まりつつある。
(日本食糧新聞社『食品産業事典 第九版』(引用箇所の著者:社団法人 静岡県茶業会議所 榎田将夫))