シェフと60分 イタリア料理「ペペロッソ」オーナーシェフ・遠藤秀明氏
「会社は、自分がコレで良いと思ったら辞めれば良い」と言ってはばからない。
“資産を持たず技術を持つ”を信条としているからだ。
全員に「明日は仕事ができるかどうかわからんぞ」という危機感をもたせると同時に、スタッフを次に働ける場につける自信を持っており、また、そうなるような教育をしているという。
今までの人との出会いで、「今の自分があり、これをスタッフに伝えていきたい」。運命共同体ではなく、辞めたい者は、いつでも辞められる。
現に一スタッフが、来年4月にはここを辞め、スイスに行く。「うちを卒業するのです」と嬉しそうだ。
料理も売るが人も売る。
店が繁盛し、良い仕事をすれば、客からの指名もあり、技術力を買いたいと引抜きがあるのは当然。「そうならなくては駄目」と、スタッフを叱咤激励する。
新入社員が入ると、「ハイ、すみません」、これだけを言うように教える教育法だ。
これは、“自分の意志を持っては駄目”ということ。私は、あなたのために働きますという意思表示でもある。
「ハイ!」と言えるようになるまで三ヵ月はかかるという。一番やさしいようで難しいことだ。
条件反射になるようにする必要があり、この時代をうまく過ごせるかどうかで、自分の将来が決まってくる。一〇年は続く。
自らが一〇年、そうやって来たことを踏襲させようというわけだ。
「自分が歩いて来た道がベストと思っているし、最高だと思っている」、時代により変わる仕事はしていないとする。
「みんなが納得しているかどうかは知らない。聞きもしない」と、あくまでも自らの教育法を通す。さながら遠藤塾といったところ。
一見、時代と逆行しているようだが、「基本に忠実でありたい」と思うからだ。
スタッフ全員に、経営者意識を持たせようと、一%は初心に帰ることをすすめる。
飲食店は明日のことはわからない、お客が来るかどうかわからない。こうした不透明な中でこそ、九九%は長いスタンスで先を見、残りの一%は、初めて料理人を志した時点に戻る必要性を説く。
「そうすれば、物事が後に下がりながら前に進むのです」
「社員全員が社長」というだけに、売れるものを作り、どう売っていくかに全員参画させ、意識を持たせるようにする。
一つにボールペンの色がある。ブルーやグリーンのボールペンを使うと、黒のボールペンに換えるように注意し、「何回も言うことで、体で覚え習慣づけさせる」。
公文書では黒しか通用しないからだが、「頭で理解したものは忘れ易い」と、あくまでも体で理解させる教育法をとる。
毎日、何枚もの黒板にチョークでメニュー書きをする。
レストランの営業形態はアラカルトから始まっており、これを通すためにすべてがアラカルトメニューだからだ。
オーダーをとるのに苦労するが、黒板に手書きすることで自然に覚えられる。
「仕事は大変なのです。楽ではない。身をもって知るのが一番。このやり方は、昔からやっていることです」
かつて修業時代、人気メニューの一つにサンドイッチがあった。当然、毎日三斤のパン二〇本が配達されて来るが、料理長の指示で切らずにある。
「オヤジは切るのも勉強だ」と、何枚どりと決まっている枚数に切るため苦労をさせられたという。
「カッコ良い仕事はしない」、一日二四時間、目いっぱい働こうじゃないか主義を通す。
料理書に自分の名前が付いたものを、「一品でも残していきたい」と願うのは、料理人であれば誰しもが思っていること。また、そういう思いを持たなくてはならないとする。
イタリア料理をベースにしながら自分達の料理を作ろうとみんなでやっている。いろいろ作り、失敗したものは消えてなくなる。淘汰され残っていく料理に、自分の名前が冠せられたら本望という。
「これはオレが作った料理だ、日本人が作ってもイタリア料理がベースであればイタリア料理だと言いたい」
ヨーロッパへ行き、初めてワインとの付合いを覚えた。
二五歳で渡欧するまで一滴も酒を飲まなかったのが、「言葉もわからず、酒でも飲まなきゃやっていけなかった。淋しかった」からと飲んで以来、ワインとの付合いは深まる一方。今では、「この場所で、この坪数でこれだけ売れるのは日本一」と自負するほどだ。
今では、機会あるごとにイタリアへ行き、蔵元通いをする。
「値段が高いか安いかの問題ではなく、味をみれば売れる味かどうかわかる」と言い、ワイン普及のために、逆に「業者へ、どういうものをどう売るか提唱している」ほどだ。
文 上田喜子
カメラ 岡安秀一
昭和25年、静岡県生まれ。子供の頃から病弱な母親に代わり買物をするのが日課だったため、食材に慣れ親しんでいた。また、父親が“おいしいもの好き”だったことから当時にしては珍しく、外食の機会が多い家庭環境であった。
料理人の道へは、横浜にあるイタリア人の店「パウロ」で働きながら横浜調理士学校に入学した時に始まる。
その後、「有隣堂レストラン」「コックドール」と職場を移るが、このコックドール時代にホテルオークラかヨーロッパ行きかの大きな選択に迫られ、ヨーロッパ行きの札をとる。
「どっちに転んでも料理の道。それなりの料理人生があったろう」というが、今を邁進する料理人であり経営者にとって、五年間のヨーロッパは、「人生の考え方を変える」ほどにインパクトのあるものだった。
大いに働き、大いに休む精神は、ヨーロッパで得たもの。今年の長期バカンスは、家族とともにタヒチへ行く。ついでにバニラビーンズを買うのを忘れなかったのは、根っからの料理人からか。
「ヨーロッパの料理を作っているからには、この店に一歩入ればヨーロッパ」、この理想をいつも追い続ける料理人だ。