だから素敵! あの人のヘルシートーク:俳優・渡辺篤史さん

2003.12.10 101号 4面

日曜日の朝、「いつかこんな家に住めたらなあ」という素敵なリビングの中に、俳優・渡辺篤史さんの笑顔がある。『建もの探訪』(テレビ朝日)のリポーターはもう15年、その間訪れた建物は750軒に上る。家へのこだわりは、生まれ育った茨城県筑波山麓の環境にあった。その原風景「蔵」を追いかけての心の旅、街づくり文化論を語っていただいた。

小学校三年まで暮らした田舎は、本当に素晴らしい所でした。特に母家続きの蔵が僕の遊び場。ジイさんが集めた古道具、たくさんの書籍、ガラクタ…。畑からもいできたキュウリを仲間と食べたり、鬼ごっこをしたり。ちょっと不思議な空間で、まさに僕の城で、隠れ家だったんです。漆喰の壁。貯蔵しているコメや発酵する物の匂い。多感な時期に体験したことだから、しっかり自分の中に残っています。

一方、東京に出てきたら文化住宅という名のベコベコの家。でもこの安普請に住んだおかげで、ずっと理想の家を追い求める気持ちになったのかもしれない。その家と蔵との間を埋めるためにね。「ああ、あそこに帰りたいな」、といってももう主の代わってしまった田舎に帰りたいというのではなくて。散歩をしていても気に入った家の前でしばらく見ていたり。幼くて説明する方法は分からなかったけれど、自然のあり方とか、建物の持っている意味、大人になって本当のことが分かるまで、大きな疑問符をつけてありました。

『建もの探訪』、最初は公共施設から始まったんです。第一回は沖縄の守礼門の崖下にある小学校。土地の赤土を使った赤瓦が使われていて、その瓦の裏側に全校生徒の名前が入れてある。二回目は同じ沖縄の名護の市庁舎。地場産のブロックに赤土を入れた建材を使って、クーラーを入れなくても自然の風が「風の道」を通して取り込まれるようになっている。舎内には人々が憩えるテラスがある。海風の中、ブーゲンビリアが咲いてそこで昼間から集まって何やら楽しそうなおじいちゃん、おばあちゃんたち。みなさんすごく、元気なんだ。

その後、僕の提案で方向が変わっていきました。ずっと住宅の雑誌を集めていて、部屋に並べていた。手にとってページをめくるたびに、どうしてもそこで止まってしまう素敵な家がある。そこに紙を挟んで、何十冊かプロデューサーの所に持っていったら、「いいじゃない、このページたちの訪問記をやってみたいね」ということになりました。

僕自身の家に関する考え方として底辺にあるのは、「人間、生きるということはサービスだ」ということ。お互いにサービスを提供しあわなくては。前庭に木を植えて、感じのいい場所にして喜んでもらう。そこにあるだけで、周りの人と話さなくてもつながっている、そういうの大切だと思う。

二〇世紀前半のドイツの建築と美術の学校、バウハウスの初代校長は、「あらゆる表現の中で最高のものは建築である」と言っています。調度や家具ならば移動もできる、しまうこともできる。でも建物だけは街にあって三〇年、物によっては一〇〇年、二〇〇年存在し続けます。土地を傷つける、爪を立てる、それは神様の許しを得てする行為だと思う。自分や家族のためだけにあるのではない。環境作り、風景作りと思わなくては。つまり街づくりだよね。

東京のいまの街を美しいと思いますか。日本は戦後、世界からお金をいただいて奇跡的な復興をしたんだから、本当はもっといい街を造らなくてはならなかった。少し豊かになった頃、アメリカの設計家が東京に来た。街を見下ろし「ゴミ箱をひっくり返したような街だね」と言ったという。あるいは「集団的記憶喪失の街」だと。その通りだよ、だって海外のどこに行っても普通、旧市街ってあるでしょう。それがない。

日本だけに戦後があるわけじゃない。ワルシャワなんて六〇年かけて昔のまんまに復元して「お待たせしました」と言っている。ベルリンもプラハもそうでしょう。古いものを再現しようと心を砕いた。

でも本来、日本人の美意識ってすごいもので、世界に伝播して大影響を及ぼしているんですよ。

ヨーロッパでは産業革命後、モダンの変革がありました。都市に集住するようになり、まず課題となったのが良質の住宅提供。それからポスター・家具・システムキッチン・舞台芸術、あらゆるものが見直された。それまでの貴族のパトロンにおもねるような装飾過多から無駄をそぎ落としたり、自由な雰囲気が出てきたり。「モダン」とはそういう意味です。

その流れにジャパニズムは大きく影響している。一八五〇年代、オーストリアの版画家が日本から陶器を輸入した。陶器を愛でながら包み紙、新聞紙のようなものに目をやると、そこに葛飾北斎の版画が描かれていたんだ。これを見て版画家は驚いた。草花などの自然の中に日本の気候風土が表れていたんだね。だって日本の自然はすごいもの。大陸からの季節風で雲の状態もちょうど良く、雨をもたらす。山は急峻で川面は速く流れ、だから水は澄んで魚も多種多様。そこに四季がある。緑の地味がいい。たぶん世界でも特別にいい場所なんですよ。産業革命のせいで、一度自然を壊滅状態にしちゃった後のヨーロッパ人が見たら、それは本当に感動したと思います。

もうひとつアメリカの話。初めて日本建築が紹介されたのは一八九三年のシカゴ万博。なんと宇治平等院の縮小版を日本パビリオンとして建てたんだ。檜の建材と二〇〇人の職方が行ってね。江戸時代の大工さんが最高に力を発揮した頃、三八〇種の道具があったという。欧米人は割とおおざっぱだから、そんなのを使いこなして、かんなをシュッシュッとやっている日本の職方の姿は粋でかっこよくて、大評判になった。後に帝国ホテルの建築で知られるフランク・ロイド・ライトさんはもう大ファンになって、自分が監督している現場を放りだし、毎日見学に通ったんだそうです。それを機に大変な日本びいきになって、仕事を引き受け来日しては道具を買った。建築にしても水平の美、陰影などの日本様式を取り入れ、変わっていった。人生の事情でこの人がドイツに渡ったことで、先のバウハウスまでが彼に影響を受ける。

整理すると、日本の文化は一九世紀半ば、芸術作品としてヨーロッパに行ってジャパニズムと呼ばれる。一八六七年、パリ万博には薩長と幕府が大工さんたちを連れて行き、建築のすごさを見せた。その後ウイーン万博、アメリカのシカゴ万博。その影響が海を渡りヨーロッパに行ってモダニズムに影響する。すごいよね。

東京の田園調布という街、あれはイギリスの田園都市がモデルですが、さらにそのモデルは日本の武家屋敷や民家なんですよ。イギリスの田園都市はアメリカに輸出され、一九〇〇年代半ばのテレビ番組『パパは何でも知っている』なんかの白い家の世界までに至る。でも、歩道に植栽と巨木に近いような並木があって、前庭・奥庭。あの最初の原型は日本の武家屋敷や民家です。欧米の家の感じのいい間接照明も、元を正せば日本の行灯から。一方日本はその後、蛍光灯一色になってしまった。

もともとは僕たちのものなのに、街にしても住宅にしてもいま僕たちは享受できない。家具や持ち物にしても海外ブランドをありがたがって、固有のものの評価が低い。映画だって海外の賞をもらって初めて国内でも認められる。かつて武家社会時代の権力者は、腕力だけでなくいいものを見る目がとても高かった。我々はその美意識を持った人たちの末裔、だから本当は見る目はすごくあるんです。けれど明治は江戸を否定することから始まったからね。そうでないと新しい社会の存在意義がなかったから。寸断されてしまったものを復活させ自信を取り戻さなくては。そういうことを子供たちに教えていかなくてはいけません。

不景気といってもいままだ僕たちは豊かです。我々はこの時に何を残すかがテーマでしょう。どんな街づくりが理想か。地域性も大切にしたい。僕が見た沖縄の学校や市庁舎の発想も大事です。健康の時でなく、具合が悪くなった時、そこで深い深呼吸ができるか、そんなことを想定して街を造ればいいと思う。ほっとする空間、地震の時にも逃げ込める場所のある余裕。

並木がある街は美しい。緑の中から出てくると、道行く人が利口に見えて、いい男、いい女に見える。日本にそんな街、増やしていきたいですね。

◆プロフィル

わたなべ・あつし 1947年茨城県生まれ。日本大学出身。シリアスから娯楽まで、数多くのテレビ・映画に出演。中でもリポーターをつとめる『建もの探訪』(テレビ朝日系)はライフワークとなっている。2002年10月、日中国交正常化30周年記念映画『王様の漢方』に主演。

◆食べ物の話も少し…

「昨年公開の映画『王様の漢方』では、北京の万里の長城を舞台に、身体を良くする薬膳を食べてきました。『かつて始皇帝は徐福に命じ少年少女を連れて日本へ不老不死の仙薬を探しに行かせました。それから2000年、今度は私が日本から老若男女を連れて心と身体の癒しを求めてやってきました』という私の台詞にある通り、食べ物と健康がテーマになっております」。

これぞ中医学の神髄というような、料理もずらり。観る漢方としてお勧めだ。

DVD・ビデオ=販売/アスミック

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