長寿の里訪問 山梨県・棡原の教訓 傾斜の土地、麦の食文化とのバランス
バスが開通する昭和二八年~九年まで山梨・棡原(ゆずりはら)がどうして麦の食文化を保持できたのか。答えは簡単。コメが出来るような地形ではなかったからだ。かつて棡原を訪れた荻原井泉水のその時の印象が「長寿村・短命化の教訓」(古守豊甫・鷹觜テル)の中にある。「部落はすべて山の斜面に添うて、家々が点々とあるので一軒から隣の一軒へ行くにも坂道である。この日あたりのよい、太陽の光に満ち満ちた中に生活することこそ、一村長寿の素因の一つであろう。斜面が多いので、昔から田を作ることができない。ムギ、ヒエのたぐいしか出来ない。しかもその耕作には坂を上り下りする労力に馴れなくてはならない。このような粗食と労働が却って、一村長寿の素因となっているのではないか……」。
交通の未発達ゆえの自給自足、地形に難があるゆえの麦食文化。その不便さが絶妙のバランスを保ち、村民の長寿と健康に目をみはる成果を及ぼしていたわけだ。
現在でも棡原の地形が「学校の校庭以外、平らな所はない」ことに変わりはない。下の畑で収穫したものはこれより高い位置にある部落にかつぎ上げる。上の畑に作物を作るには肥料をかつぎ上げなければ始まらない。狭い畑をたがやす時は、地面の斜度の高い方に立ち、上から下の土を引き寄せるような格好で行う‐‐。
想像するだけで大変な重労働であることが分かる、この棡原の伝統的農作業法はいまも健在という。
年輩層はその担い手として若い時代から活躍していたわけだが、これには男性・女性の区別はない。女性も重要な労働力だ。現在七〇歳以上の棡原の年輩女性は皆、一〇人前後の子供をもうける多産型で、そのお産が座産の実に軽々としたものであったことは、農作業で彼女たちの腹筋がつねに鍛えられていたせいとされる。
快適さと健康のパラドックスは、出産にまでつながっていた。