ようこそ医薬・バイオ室へ:「テーラーメード医療」がやってくる

2000.06.10 57号 6面

学生の頃なので随分古い話だが、耳の不自由な先生の授業があった。マイペースで授業を進め、好きなだけしゃべった後、「今日はこれまで」と言って帰って行った。質問がある場合は、紙に書いて教壇まで持っていくと答えてくれるらしいが、そんな場面は見たことがなかった。で、その先生は、「若い頃に結核にかかって、ストレプトマイシンを飲んだので耳が聞こえなくなった」と言っていた。

ストレプトマイシンは戦後、結核の特効薬として大いに使われた抗生物質である。もちろんストレプトマイシンを飲んだ人全員の耳が不自由になったわけではない。後に分かったことだが、ミトコンドリアDNAにコードされている遺伝子の一塩基が変異している人に高い確率でこの副作用が起こっていたのである。つまり、あらかじめその遺伝子に変異があると副作用が起こることが分かっていて、その変異の有無を調べる手段があれば、多くの人が耳の自由を失わなかったことになる。

このような一塩基の変異は、一塩基多型(SNPs、スニップスと読む)と言われ、疾患や副作用との関係が明らかなスニップスの解析は、欧米を中心に進められている。日本でも、病に倒れた小渕前首相の肝いりで作られたミレニアム(千年紀)プロジェクトの中で、五省庁連携によって、この解析を進めようとしている。

ところで、このミレニアムプロジェクトだが、技術大国として再び日本が世界をリードするための技術革新に取り組もうとするものである。二〇〇〇年度予算も経済新生特別枠二五〇〇億円のうち一二〇六億円を、情報化・高齢化・環境対応の三本柱に集中投資する。中でも、高齢化の目玉は「個人の特徴に応じた革新的医療の実現」ということで、いわゆる「テーラーメード医療」を行うための基盤技術を確立することが目的となっており、ゲノム(全遺伝情報)解析にかかわる予算は六四〇億円に上っている。

この個人の特徴に応じたテーラーメード医療の中核をなすものが、スニップス解析である。糖尿病になりやすい体質とか、高血圧になりやすい体質とか、ヒトは遺伝的に均一ではないので、一億二〇〇〇万人の人口がいれば、一億二〇〇〇万人分の異なった体質があるはずである。しかし、病院に行くと、「この病気にはこの薬」という感じで、「アレルギーはありますか」くらいしか質問がされない。数センチ角のガラスの上に、数千から一万種類のDNAを張り付けたDNAチップというものに、患者の血液から取ったDNAをまぶすと、その人の遺伝子の情報が網羅的に分かる技術がアメリカで開発された。この技術と、薬剤の効き目や副作用などに関係するスニップス解析の情報とを組み合わせれば、簡便にその患者の体質が分かるわけである。

これが確立すると、病院に行って薬をもらう前に、採血をして体質を調べて、その人に副作用がなく、最も良く効く薬を処方してもらうことができるようになるであろう。しかし、個人のスニップス情報というのは、いわゆる遺伝子診断の結果でもあるため、そのプライバシーをどうやって保護するか、すべての結果の告知を行うか否かなど、多くの問題も含んでいる。アメリカでは、遺伝子情報によって生命保険などの掛け金に差別をしてはならないという指針が出ているが、それらの情報が漏れると悪用される可能性がないわけではない。

妻は、「お医者さんだけが私の情報を知ってはるのは許されへんなあ。分かったことは教えてもらわななあ。せやけど、近い将来アルツハイマーになるでと言われても困るだけやなあ」と言っていた。その通り、そこが問題なのである。

科学技術の発展は確実に人類に貢献すると思うのだが、車内での携帯電話の使用のように、個人レベルではTPOによって恩恵にあずかりつつも微妙に迷惑な面も併せ持つので、その辺が難しいところでもある。

(新エネルギー・産業技術総合開発機構 高橋 清)

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