2000年前の「徐福」伝説、日本の食の原点を探る

2000.06.10 57号 16面

約二〇〇〇年前、日本は弥生時代、お隣の中国では秦の始皇帝が絶対君主制を宣言している。始皇帝の命を受けて、不老不死の霊薬を求め、蓬莱の国と呼ばれた日本を目指した約三〇〇〇人の童男童女からなる一行があった。団長の名前は徐福方士。彼らはその後も祖国へ戻ることなく、日本での生活を選んだという。そして日本人に衣食住の基本的な指導をしたという説が有力だ。もしそれが真実なら、日本の食の原点に徐福は多大な影響を及ぼしているかもしれない。西暦二〇〇〇年のいまこそ、約二〇〇〇年前の謎多き「徐福」を探ってみたい。

(取材協力=「日本徐福会」飯野良子事務局長)

中国の正史『史記』には「古代斉の国の屈指の名門貴族、徐福方士と三〇〇〇人の男女が東の桃源郷日本へと旅立ち、そこに住み着き二度と戻らなかった」と記述されている。日本にも「宮下富士古文書」と呼ばれる縄文以来の歴史を記した古書に徐福に関する記録が実在している。

徐福一行は日本の温暖な気候、風光明媚、土地の人々の温かい友情に触れ、ついにこの地を永住の地と決めた。土地を拓き、農耕、漁法、紙すき技術をその地の人々に教えたとされている。食の分野では、塩の製造をはじめ、岡畑・焼き畑、水稲、粟・稗・麦の耕作、腐らせたものを土に混ぜて肥料を作ることなどが挙げられる。徐福が教え伝えたことが現在まで続く日本の食の原点かもしれないのだ。

徐福、日本への道のり

七代孝霊天皇の時、秦の徐福が来朝し、初めて日本に“渡来人徐福”の姿が登場する。

徐福は始皇帝を欺き、新造した大船一二隻に金銀、五穀の食糧のほか様々な品を積み込み日本へと旅立った。日本の記録では、徐福は始皇帝に「東方に蓬莱山の島あり、その山上に長生不死の薬草あり、私がその薬草を探り、君に奉らん、さすれば万々歳、寿齢久しく帝運いよいよ盛んなるべし」と奏上する。始皇帝は大いに喜び派遣を同意した。

しかし徐福は再び祖国に戻ることはなかった。自らを秦徐福と名乗り、同行した人々の名前をすべて日本名に変え、追跡の目をくらましてしまう。もちろん彼らに侵略の意図はなかった。子孫のために父祖三皇五帝の様々な知恵をその桃源郷に移し、理想の国造りに貢献したいと考えたのではないだろうか。その時の徐福の年齢は男盛りの五〇歳前後だと推測されている。

徐福についてはいまだ謎が多いが、理想の桃源郷日本で、彼は多大な影響を及ぼしたことは確かなようだ。

(参考資料=飯野孝宥著『弥生の日輪』より)

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