だから素敵! あの人のヘルシートーク コメディアン・萩本欽一さん

2000.07.10 58号 4面

日本の大ベテランコメディアン、“欽ちゃん”が今夏、スクリーンに役者として登場する。物語は自ら下積み時代を過ごした浅草の芝居小屋が舞台、人情味あふれる小屋の社長役を好演。「当時の小劇場の楽屋では、毎日いろんなドラマが繰り返されていましたよ」、その時代、撮影の裏話をじっくり聞いた。

映画の中のコメディアン、まさに僕、あの仕事をしていました。先輩の芸のしごきが厳しかっただろうって? ううん、違うの。当時一番厳しいのは芸ではなくて、生活です(笑)。何たって給料を払ってくれない。最初は本当に無給。普通だったら生活できないでしょ。でも、タダだっていうのをみんな知っているからね。昼、先輩が「おーい、きつねうどん頼んでくれ」のついでに「おまえのも頼みな」って言ってくれる。夜はみんなアルバイトをしていますから「連れていって下さい」って一緒に行きます。言葉を選んで「その荷物を持たせて下さい」とか言って。それで晩ご飯をごちそうになるんです。

生きていく上には人に可愛がられること、嫌われないことが大事なんだと覚えましたね。人の眼を見て、気持ちを察するというか。「お茶が飲みたいな」と言われて出すんじゃなくて、「そろそろお茶を飲みたい頃じゃないか」って察して出す。それでもってご飯が食べられる。浅草時代の修業、当時は生きていく上での術だったんだけれど、それがその後、人気商売をやるのに足しになったのは事実です。

そんなことをしているうちに、僕より給料をもらっている女性に面倒を見てもらうようになって。映画では黒木瞳さんが演じられた役どころ、まぁ看板ダンサーさんです。「頑張んなね」って家賃を払ってくれたり、「有名になりな。そのためには勉強しなきゃ」ってテレビを持ってきてくれたり。ふと気がついたらそれが女房になっていた。うまく引っかかったものだね(笑)。

コメディアン以外の役でテレビや映画に出たのは、初めてです。おかしなことをしない仕事っていうのは不安ですよ、経験がないから。だから監督の前ではまるきり素直な新人になりました。言われるままに「分かりました」って感じで。自分からアイデアを出す? ない、ない。だって本当にないんだもの。笑いならあるけどね。

「映画の話があるんだけど」って聞いた時には、最初は笑いましたよ。「誰だよ、そういう間違え考えるのは」って。台本を見て「そうかあ」って思ったけれど。でもお話を受けたのは浅草に対する懐かしさが理由じゃないです。今回、僕が一番興味があったのは監督さん。まだ三〇代の人だけれど自分のその年齢の頃を思い出していいなぁって思って。何かやってやるぞ、生きてるぞって感じのする人でね。大体僕を役者として使おうなんてどういう人だろう、ちょっと会ってみたいと。で会ったら「テレビで欽ドンを見て育った世代です!」っていきなり言われて。僕がテレビに出て夢中で走っていた頃だよね。いまは映画づくりに情熱を燃やすような若い人はいないでしょ。話しているうちに「この人をもうちょっと見ていたいなー」って気持ちになって、それが出演の第一の理由。二番目は、黒木瞳さんは綺麗だろうねって。だから浅草はずっと後ろの方なの。

僕自身、ものを創る時は一人で考える。民主主義はあまり好きじゃないのよ。みんなで話し合って一つの結論を出すと、ほとんどいいものはできません。僕は議会制民主主義もかなり疑っているもの。失敗した時、誰も責任をとらない。独裁政治は失敗した時は本人が責任をとれる。実際にはいままでの独裁政治家はトボけて責任をとらなかったけれど、法則としてはそうです。映画の制作の時も監督が「こう」って言ったら黙ってついていくと、いいものになるね。この映画もみんなが一生懸命監督を応援してついていったから、監督の思っていた通りのいい作品になっていると思うよ。

最初にテレビで売れっ子になったコント55号(坂上二郎さんとのコンビ)の激しいコントは、寝ないでやっていたんです。布団で寝たのは三時間ぐらい、それも一週間に三日ぐらい。あとは全部電車の中とか車の中とか楽屋。ご飯を食べていても半分は寝ているわけ。寝ないと何が良くないって今が見えなくなる。そこに石があっても見えない。だから目の前の石につまずく。仕事で言うとアドリブが飛ばなくなるんです。先もなくなるんですね、人とのかかわりの中で大事な言葉をちゃんと聞いてないから。やはり人間というのは寝なきゃダメだと分かって、とにかく一回寝ようと55号をやめた。その後一年間はよく寝ました。

それから「欽ドン」「欽どこ」「スター誕生」「ぴったしカンカン」と次々とつくっていったけれど、寝ないでやっていた番組は一本もないです。どんなに忙しくてもまずよく寝る時間がある、次にはよく考える時間がある、それから安心して本番をやれるような一日がある。そういうことを基本に仕事を一つずつつくっていくのがいいと思っています。

食べ物で僕がこだわるのは朝食だけ。それも一週間に七つのメニューがあればいい。二日間はラーメンにご飯とカレーうどんにご飯、あとはシャケ缶にソースをかけて食べるの、アジの開き、目刺しがそれぞれ各一日ですね。えっ、変わってる? 偏っている? そうかなぁ。

一〇〇歳の人を相手にしたテレビ番組で食事の話も聞いているけれど、三六五日イワシしか食べないっていう人がいましたよ。「朝は何を食べるの」でイワシ。刺し身にして食べる。「昼は何を」でも、「夜は何を」でもイワシ。「明日は」でもイワシ。「味噌汁は」って聞いたら「味噌汁はアサリのとかキャベツのとか飲むよ」って。「じゃ、違うものもそこで食べているんじゃないですか」って言ったら、「アサリは身は食べない。味噌汁というのは身を入れてぐつぐつ煮る。だから栄養分は汁の方にある。どうしてみんなはカスを食うんだ。あんな栄養分の抜けたものを食うと死ぬぞ」って(笑)。その人はイワシを食べて、あとは味噌汁の汁しか飲まないんです。「一〇〇歳まで生きるためにはカツだ」って、カツしか食べない人もいましたね。ウナギとタイが好きで、毎日きょうはウナギ、きょうはタイと二つを繰り返しているという人もいたし。どうも話を聞くと、一〇〇歳まで生きるために食べ物のことを細かく考えたって人はいない。自分の好きなものを食べている人が多いですね。独自の食べ方をしている、信念を持っている、そうとはいえるけれど。これは僕もそう。

僕ね、家庭でマーボー豆腐をつくる奥さんの気持ちが分からないんだよね。だってマーボー豆腐は外の料理屋のものの方がうまいに決まってる。男っていうのはいい仕事をしていると、外へ出た時に「一緒に食事をしましょうよ」と誘われるか、自分が「おい、飯食いに行こうや」とみんなを連れていくかしています。だから家へ帰ってきて「おいしい料理をつくったの」って言われても、差があり過ぎます(笑)。一生懸命作ったっていわれると無理してまた食べなければならなくなって、それはダンナを病気にします。だから「食べてきたの」と聞いて「食べてないよ」と言われたらすぐに用意できる、そんな簡単なものがいい。アジの開きとか明太子、目刺し、サツマ揚げ。葉唐辛子とか静岡のお土産のワサビ、お新香にお茶漬け。あとはおいしい味噌汁、料理屋では吸物が多いからね。とにかく外では出てこないようなものがいい。逆にダンナが家へ帰ってきて「うまいもの食いたいな」って言ったら、それはいい仕事をしてない証拠かもしれないよ。

僕、三〇歳くらいの時、憧れの人チャップリンに会いに行って、会ってもらっているんです。当時八四歳、「ドゴール亡き後、ピカソとチャップリンは人に会わない」といわれていました。来ても無駄だと人に言われたけれど、僕はだから会えるんじゃないかと思った。誰も会いに来てないんだから、一人くらいは珍しくて会うんじゃないかって。「あなたに会いに来た」って書いた紙をもって四日間頑張ったんだけど、まわりのガードは堅い。帰らなければならない最終日、マネージャーさんに冷たい言葉を浴びせられて興奮した僕は、日本語で「あの(優しい)映画は嘘だっ!」って叫んでしまいました。それが三階にいるチャップリンさんに聞こえた。「誰か来ている。日本人だ」って気付いて降りてきてくれたんです。想像した通り、優しい人でした。人を包み込むような目をしていた。目が笑っているというのは本当にあるんだと思った。

僕もチャップリンさんの年齢になった時、また一〇〇歳になった時、人が会いに来るような一〇〇歳でありたいよ。それも九〇歳の人が会いに来るんでなくて、年齢を超えて一〇歳の子供とか二〇歳の学生とかが、「欽ちゃんの昔のテレビを見て、会いに来ちゃった」とかいってくれたらな。用事で来るよりも、だらしない話で来てほしいよね。「競馬で取られちゃったけど」なんてさ。いろんな人に来てもらって話ができるように、芸能界のことだけでなく、いいことも悪いことも、いろいろ経験しとかないとな、と思います。

1941年東京生まれ。66年に劇団仲間の坂上二郎さんとコント55号を結成。欽ちゃんの愛称でスターに。その後は『欽ドン』『欽どこ』などテレビ各局で高視聴率を獲得。98年には長野オリンピック閉会式の総合司会を務める。現在、NHK総合テレビ『欽ちゃんとみんなでしゃべって笑って』にレギュラー出演中。

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