だから素敵! あの人のヘルシートーク:衆議院議員・橋本龍太郎さん

2003.06.10 94号 4面

衆議院議員として多忙を極める毎日の中で、登山に剣道にと生涯スポーツに親しむ橋本龍太郎さん。そうした経緯からこのたび設立された(社)日本山岳ガイド協会の会長にも就任した。昨年2月の入院・手術からの劇的な復活も、これまでのスポーツマン精神と日常が大きく影響したようだ。その周辺を伺った。

((社)日本山岳ガイド協会発足総会にてインタビュー)

私が初めて山を歩き始めたのは昭和20年代の終わり。その頃は大変荒れた状態の山でした。父親(厚生大臣などを歴任した橋本龍伍氏)が人に頼んで、当時高校生だった私の“おもり係”を探してくれて、穂高町の大変素晴らしい案内人さんをご紹介いただきました。初めて表銀座を縦走、新雪の槍へ、そして穂高にも足を伸ばして。植物のこと、雪崩の危険性、そこにいる昆虫まで、いろんなことを教えてもらいながら少しずつ少しずつ、山というものを好きになっていきました。

私がしばしば事故を起こすようになったのは、「もう山案内はいらない」と一人で突っ走り始めてからのことです。振り返ってみますと、当時山案内人さんが教えてくれたことは、いまでもいろんな場面で生きています。自分の中にそんなものがあるだけに、いまこれから初めて山に行こうという中高年の方が増えている中で、山案内人、ガイドの重要性を提案したいのです。困難な登攀を重ねる大変なコース、誰でもが近寄れる身近な自然、山にはいろいろな楽しみ方がある。その両方をご案内できるガイドさんがこの協会にはいますよ。

もう一つの私の好きなスポーツは剣道です。小学校に上がる前から父の防具や竹刀に憧れていたら、子供用の木刀を買ってくれ、朝、家を出る前に素振りを教えてくれたんです。大きくなったら剣道をするんだと心に決めていたのに、敗戦で日本古来の武道が禁止になってね。

やっと解禁されたのは高校二年、喜んですぐ剣道部を作りましたよ。大学も迷わず剣道部へ、でも入ってすぐ、「これは正選手になるのは難しいな」と思い知らされましたね。付属の高校から上がってきた仲間はみんなすごくて、復活直後から稽古を始めていました。その前にも“しない競技” という剣道に似た競技をつくって練習を続けていたんです。対して僕ら普通に入学試験を受けて入学して来た仲間は、そういう機会がなかったので皆初心者でした。でも例え試合に出られなくても、したくてもできなかった剣道が大手を振ってできる、幸せでした。段位を取るという目標もありましたしね。

総理になった時に無性に剣道をやりたくなって、しばらく休んでいた稽古を開始したんです。無理にも時間を作って、都内の警察署や大学の道場を訪ねて竹刀を振りました。お巡りさんは手加減しないで打ってくるからこっちも真剣です。

悩んだり考えたりする暇なく動く、その時間が一番のストレス解消になりましたね。

ヤマヤ(登山者)だから料理は苦じゃないですよ。家で一人で留守番してる時なんて、よく台所に立ちます。自分で作るのは酒の肴みたいのが多いかな。さいの目の大根をたっぷりのごま油をかけ置いてから、炒めてしょうゆを一垂らし、さらにしょうゆで味付けした大根おろしを加えて一煮立ち、冷やご飯にかける。このメニューは二日酔いの時によく作ります。そのまま冷や酒で迎え酒になってしまうこともあったりして(笑)。

山での食の思い出はたくさんあります。親父と燕岳に登るのに豆腐を二丁持たされてね、何だろうと思っていたら、途中の合戦小屋でそれにたっぷりのキノコと野ウサギの肉を合わせてキノコ汁を作ってくれた。あれは生涯で出合った最高のキノコ汁でした。政治家の日常では、食事はまったく“ノンルール”。食べられる時に食べられる量を食べておくという、非常に野蛮なスタイルです。ああヤマヤをしている時の生活と一緒ともいえますね、食えなくなったらダメになるというところも似ています。体力勝負、頭はあんまり関係ないですよ。

その分、自分一人で食事をする時に、野菜をたくさん食べるようにしてるんでしょうかね。

昨年2月末に心臓の弁が一つ吹っ飛んでダウン、3月早々に手術をしました。でも日頃スポーツでトレーニングしていたせいか、おかげさまで回復は早かったです。4月中旬には仕事を再開できました。月末には議長をしている「国際麻薬統制サミット」が、5月には「身体障害者補助犬法」の国会提出、議員立法があって。早く身体を元に戻さないと大勢の人に迷惑をかける、そういう意識が常にあった。それで元気になれたのかもしれません。気持ちが身体を支えているというか。ありがたいですね。一日三〇本吸っていたタバコは、病気をしたことをキッカケに休煙中です。何も問題はないですけどね、体重が六キロ増えてしまって、抑えるのには苦労しています。

6月初めには剣道の稽古もできるようになりました。いまはもう不自由なく、全く前のようにできます。私の周りには九〇歳を過ぎて続けている人が何人もいます。剣道は年をとってもできるし、年輩者が若い人よりも強いこともある。

山登りも同じで、ともに生涯スポーツとして親しめるものであったことは幸せですね。こちらはこの頃は“応援団”になることの方が多いけれど。大きな冒険は九二年のナムチャバルワが最後。夢としてはね、七〇歳になった時に自力でエベレストの見える所まで行きたい。本音を言えばマチュプチャレ登頂。でもいまあれに挑もうというファイトはあるかなあ。手術をして一年ですから無理はできません。でもかつて「いつかはヒマラヤ」と夢見ていたら三〇代で挑戦することができた。夢は持ち続けていれば、いつか叶うものですよね。そう思っています。

◆プロフィル

はしもと・りゅうたろう 1937年、東京生まれ。慶応大学を卒業し、呉羽紡績(現東洋紡)に入社。吉田内閣で厚相を務めた父・龍伍氏の死後、岡山2区から立候補して26歳で当選。通産・大蔵・運輸・厚生の各大臣を歴任し、96年から98年まで総理大臣、2001年からは第2次森内閣で行政改革担当相・規制改革担当相・沖縄及び北方対策担当相を務める。剣道教士五段。2003年4月から社団法人日本山岳ガイド協会会長。山歴としては1988年日本・中国・ネパール・チョモランマ合同隊総隊長、92年日本・中国ナムチャバルワ合同登山隊(第2次遠征隊)日本側名誉総隊長。

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