シェフと60分 四川料理「吉華」オーナーシェフ・久田大吉氏
「昔は、他の流派の人と付合うことはご法度でした」
職場は中国人で占められ、彼らはお互いの領域を持ち、四川料理は四川料理の人だけ、上海料理は上海料理の人のみで往き来をし、四川料理の人が上海料理の人と交流をすることはまずなかった。
六~七年前から、こうした垣根もなくなり、自由に往き来をするようになり、料理の上でもお互いに影響を受けるようになったという。
「お陰でチャンポンになり過ぎ、えたいの知れない料理が多くなった」と笑うが、料理人ばかりでなく、他業界の人とも広く付合うことをすすめる。
今まで多くの中国人が広めて来た四川料理を、キチンと基礎を守りながらさらに肉付けし、新しいものを作り上げて行く「それが、師匠であり先輩に対する恩返しです」
ただ譲り受けたものをそのまま受け渡すのでなく、日本の気候風土に合った、また、その時代に合った新しいメニューを展開するには、どんどん外の世界に飛び出し、交流を深めることで「日本人の作った新しい四川料理が生まれる」ことと期待する。
「肉と豆腐と野菜でおいしい料理ができる人が、本当の料理人です」という。
今や豊富に食材が出回り、珍しいもの、高いものがおいしいとしてもてはやされる風潮がある。
フカのヒレ、アワビではだれでもおいしく食べられ、料理人も豪華な宴会料理が格好良い、一番だと思っているフシがあると指摘する。
四川料理は、動物性、植物性の食べ物がキチンとバランス良く配分され、結果としておいしく、しかも身体に良い組立てとなっている。
油でも、植物性のものには動物性油、動物性のものには植物性油を使ってバランスを取る。
「一人二万円のパーティーでどうどうとホウレンソウ炒めを出しました。ダメだったらお金は取れませんが、結果は上々でした」
基本をキッチリおさえ、素材のうまさを引き立てる料理をつくるのがプロの料理人。物真似、手先の器用さでは駄目。一〇〇%上手でなくてはいけないという。
野菜炒め一つでも、プロならではの料理に仕立てるのが、プロのプロたるゆえんだ。
「本当の料理人は組織にはまってはいけない。真のお客さんと耐えて勝負する、駄目だったら白衣を脱げば良い」と断言するだけに、料理人の道を歩み三十余年経った今でも、「世の中の本当に役にたっているか、貢献しているか」を思うと眠れないという。
今までは自分の年齢、味でやって来たが、お客を師として意見をどんどん聞いて行く。
地方の教育委員会などの料理講習会へ積極的に出掛け、主婦の声を聞くのもその一つ。
「組織の中にいた時は、直接に客の意見を聞くこともなかった」が、自分で店舗を構えて、初めて直にお客の声が聞けるようになった。脂っこいのが嫌いなAさんには、Aさんが好みそうなメニューで提供するなど、お客との距離が近づいたことで細やかな気配りができる。
「この間は、九〇歳のおばあちゃんから、『久田さんの仕事は人から愛される仕事だから良いですネ』といわれた時は、涙が出るほど嬉しかった」という。自らの仕事を真摯にみつめる人だけに、胸に響く言葉だったのだろう。
ブームに流されず、ずっと残る店でありたいという。
マスコミなどで紹介され急激に客数が伸びても、一時的なものですぐに落ちてしまう。
一人の客が来て、その客が大勢の人を連れて来るのは嬉しいが、結局は対応しきれず客をがっかりさせてしまう。
「一人、一人とお客が増えていくほうが良い。ホップ、ステップ、ジャンプと順序を踏んでいきたい」と、あくまでもお客に媚びず、正面から対決する気構えだ。
そのためには、基本を守りながらも地域に合わせた味の濃淡、素材の使い方とするが、そのため他の広東料理、上海料理の人々と情報交換をしたり、客との交流により常にクリエーティブなものにしようと努力する。
師の陳建民氏から「料理は一つ憶えれば一〇できる」といわれた時は大きなショックを受けたが、中国人が作って来た四川料理を「日本人であるわれわれがどう残していくか」が今後の大きな課題とする。
本当に料理が好きなオーナーが増えれば、業界を牽引し素晴らしい料理人が出る。料理人のスターが出ても不思議ではない。
「もっと交友関係を広め、料理業界だけでなく世の人々に認められる料理人が出て欲しい。雑誌、テレビでチャラチャラしたものでなく、無料でチャリティーショーをやるくらいスケールの大きい人です」
それには、料理が好きな人がこの道に入り、また、人を積極的に育てる経営者がどんどん増えて来る必要性を説く。
自身は、流派を越えて三〇歳以下の料理人を集め、「中国菜譜」の研究会を作るなどして、次代への橋渡しをしている。
文 上田喜子
カメラ 岡安秀一
一九四四年、長崎県生まれ。中学時代からコックになりたいと思い、当時唯一の雑誌であった「月刊食堂」にコックになるにはどうしたら良いかなどを相談し、白石全日本中華調理士協会長とは何回かの文面のやりとりをしていた。
高校卒業と同時に本格的に料理人の道を目指し試験のために上京、試験場で初めて白石会長と出会い、五時間という長時間料理人の道について懇々と聞かされる。
「自分が画いている料理人の世界と現実の厳しい道とは大きな開きがあるという内容でしたが……」。
結局は、父親の猛反対、白石会長の諭しに会いながら、持ち前の負けん気からこれを押し通し、料理人の道に入る。
一九六三年、六本木「四川飯店」で陳建民氏に師事、以後浅草「新世界飯店」、神田「四川飯店」、浅草「味の一番」で料理長を務めた後独立し、一九八四年、高円寺「吉華」を開店、翌年現在の上野毛に店舗を移し現在に至る。