3月18日。今日は人丸忌
3月18日は歌人・柿本人麻呂の忌日である人丸忌。柿本人麻呂は「向津の奥の入江のささ浪に のりかく海士の袖は濡れつつ」というノリを採るシーンを詠った。
古から食べられていたノリ、養殖が盛んになったのは近代から
養殖法の経緯をみると、粗朶ヒビを建てこみノリ養殖が始まったのは1682(天和2)年 以降で、六郎右衛門二代目の創案によるというものである。ヒビとは、貯魚に用いた日々網からでた名称であるが、この粗朶ヒビも木から竹へ、また網へと変転した。ノリの付着層が発見され、水平ヒビに移行してから急激に地域の拡大、生産性の向上がみられている。とくに、粗朶ヒビを種場から養殖漁場へと 移植する方法を発見した平野武次郎1883(明治16)年の功績は 忘れることができない。
ところで「浅草ノリ」の名称は、浅草河で採取製造されたことに因んだものといわれ、この名が世に広まったのは元和・寛永の頃からであるといわれる。 天和年間、江戸堀の内の百姓、 野口六郎右衛門が、浅草で紙の漉法をみて考案したのが現在の乾のりの形態となった。
明治から大正、昭和の時代になるにつれ、ノリ養殖は全国的に普及していった。そして昭和 15(1940)年頃から、戦後昭和 20(1945)年代前半までは年間 生産量は10億枚内外と非常に少なかった。その後の生産量の推移をみると、1954年は15億枚だったものが60~62年には40億枚となり、また69年を機に一挙に50%増の60億枚生産時代に入った。そして73年96億枚という未 曽有の大増産、このあと70~90 億枚の間で推移したが、83年度漁期について100億枚突破、このあと90億枚台に納まる年もあるものの、生産業界の養殖技術、 生産基盤の整備などからみると 明らかに100億枚生産時代が到来した。この生産量の飛躍的増大は、タネ網の移植に始まり、人工採苗技術の定着、冷凍網技術の普及、浮き流しによる沖合漁場の開発、多収性品種の導入、 酸処理剤を活用した技術などによるところが大きい。
(日本食糧新聞社『食品産業事典 第九版』(引用箇所の著者:全国海苔貝類漁業協同組合連合会 小磯 潮 ))