食品企業におけるパーパス経営の先進事例:赤福・平居肇特別相談役に聞く
◇株式会社赤福 特別相談役 平居肇氏
インタビュアー:新井ゆたか/加藤孝治
インタビュー日:令和5年12月23日
場所:おはらい町五十鈴茶屋(三重県伊勢市)
※社名・役職はインタビュー当時のものです。
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マスヤ/IXグループは、株式会社赤福の兄弟企業(同じオーナー家)です。株式会社赤福が手がけた「おかげ横丁」は、伊勢神宮門前町の街並みを再生した事業として夙に知られています。「おかげ横丁」開発時の舞台裏を、同社特別相談役である平居肇氏に聞きました。
加藤:伊勢神宮門前のおはらい町(伊勢神宮内宮門前町)は、平成5(1993)年に作られたおかげ横丁を中心に活気にあふれています。さびれていた時期もあると聞きましたが、どうやって再生させたか教えて頂けますか。
平居特別相談役(以下、敬称略):以前はこの地域に修学旅行でたくさんの人が来てくれました。特に戦後になって、大阪府の小学校のほぼ100%、兵庫県が南半分の約60%、京都府は京都市とその周辺で大体30%の小学校は伊勢に来ていました。ところが、昭和50年代の後半になると、伊勢神宮に行くというのは宗教色が強いという批判が出て、みなさん広島の方へ行くようになりました。また、修学旅行が新幹線の団体扱いになったので、新幹線を使って京都の小学校は広島、名古屋の中学生が東京へと行き先が切り替わってきて、いっぺんに集客が少なくなりました。一番多い時には小学生で100万人ぐらいいましたが、近年は10万人を割るようになっています。学校の生徒数が減るという話もありますが、行き先が変わったということが大きかったですね。
ある年の正月に、浜田益嗣オーナー(当時。以下同じ)が店の前のかまどのところで焚き木をくべながら、お客さんの動きを見て「だいぶ減ったなー」と言いました。それがきっかけで、これからどうしたらいいのか考えようということで、近辺の町の人たちに声をかけて勉強会を始めました。同業でいえば、利休饅頭で有名な藤屋窓月堂、市会議員や観光協会の事務局長など、企業だけではなく関係ありそうな人に声をかけました。調べてみると、観光客は内宮の周辺でお土産は買うけど、参宮街道を通って約400メートル離れた赤福の本店のある所まで来ないことがわかりました。そこで、何か魅力のあるものを作って歩いてきてもらわないといけないという話になりました。
シャッター街を再生
加藤:伊勢神宮に来る参拝客が、赤福本店まで来てくれなかったということですか。
平居:伊勢神宮はあっても、参宮街道のほうには何も食べるところがないという状況だったのです。今、赤福本店がある場所の周辺は、その頃はいわゆるシャッター通りになっていました。
加藤:今の賑わいからは、まったく想像できないですね。今のお話では、赤福本店のある場所は、伊勢神宮から離れてポツンと一つお店があるだけだったということですね。
平居:その頃の周辺店舗は、みんなシャッターを下ろしていて、周りはうどん屋さんと酒屋さんと薬屋さんがあるくらいでした。今でこそ石畳があって、店が並んでいて歩いてみたいという感じになりますが、当時はアスファルトの道路で、センターラインがあって、自動車が普通に行き交うような通りでした。赤福は、本店のほかに、伊勢神宮のすぐ近くに内宮前支店があります。以前は内宮前支店の方が多く売り上げていました。参拝客は内宮前で買って、本店までは来てくれなかった。そのくらい、このおはらい町は、まったく歩いて楽しむような街ではなかったんです。
人がたくさん集まるのは、12月31日の夜、除夜の鐘が鳴り出してからです。大晦日の夜は、本店も終夜営業をして、参拝して帰ってくる人たちになんとかサービスしようということで、赤福を召し上がっていただいていましたが、それも年始の一週間くらいで、あとは火の消えたような場所になってしまう。これを解決するためには、赤福本店の近くに何か強力な磁石をポンと作らなくてはいけないと考えたんです。町の再開発のスタートです。それで何を作ろうか、何か作るにはどこから手を付けようかという話し合いになりました。
専門家に見てもらったところ、ここは古い町並みが寂れていると言われました。その理由として、町の真ん中に大きな鉄筋コンクリートがそびえ立っていることが、町並みを一番壊しているんだと言われたんです。それは、赤福の寮でした。1962(昭和37)年に赤福社員のために鉄筋4階建ての建物を作ったんですが、街の真ん中にあるのが邪魔だと言われたので、すぐに壊すことにしました。この建物を壊した後、そこだけでは思ったものができないから、周辺にあった36の民家の方から土地を買いあげました。そして、2,500坪のまとまった土地になったので、再開発計画を練っていくことになりました。いろいろな形でプロジェクトは進みましたが、総額で140億円ほどかかりました。
新井:赤福の寮を取り壊したことで、地域の皆さんに赤福の覚悟が伝わったのではないでしょうか。旗を振る人の本気度によって周りの人たちの協力が得られたということでしょう。
平居:そうですね。まとまった土地ができ、さて何を作ろうかと考えだしたら、大店舗法に引っかかることになりました。総合設計制度を活用する中で、町の中を公道が通っているということで、4区分の中でそれぞれ500平米を超えないように考えました。超える部分については用途を変更して、店舗ではなくおかげ座のようなサービス拠点の面積を増やすようにしました。古い参宮街道では普通の民家も神宮に関係する建物も切妻の形で建てられて街道筋に棟をなしていました。昔の街並みを蘇らせるために時代設定を100年ぐらいタイムスリップした街にする必要があると考え、明治くらいの建物で作るという構想につながります。
新井:もともと伊勢講があったので人が集まり、そのために宿泊施設はあったものの、交通が発展したことで、伊勢に泊まらなくてもいいということになり、寂れていったということですね。
平居:昔は参宮街道には旅館が並んでいました。なかには伊勢神宮に向けて天皇の御名代として備え物を持ってきた勅使の方々が泊まる宿もありました。ところが昭和40年代~50年代には利用する人もいなくなり、もう寂れた状態でほったらかしになっていました。これではいかんということで買い取り、「すし久」という名前は引き継いで、料理屋として開業しました。おかげ横丁ができる5年前のことです。今でも入口から階段までのところは古い雰囲気を残していますが、その他の部分は、元は新造の別館が建っていたところを引き取って使えるように引き伸ばして平成元年に再オープンしました。
統一したコンセプトで街づくり
平居:おかげ横丁を作るにあたってタイムスリップした雰囲気というのを出したいと考えました。ありきたりの店を作ってもお客さんは喜んでくれません。開発に先立ち、平成2年~3年の頃、伊勢神宮に来てくれるような人たちがノスタルジーを感じるのは、大正とか昭和の初期の状態ではなく、明治か江戸末期の状態だろうと思い、特に明治時代の建物にターゲットを絞り、開発チームが三重県内を見て歩きました。そうしたら、一つは三重県の桑名に洋館で残っている場所を見つけました。洋館の雰囲気がこの街には面白いなと考えたのです。そのほかに神宮から払い下げてもらった建物もあります。昔、神宮では遷宮のたびに調度品まで全部作り替えるのですが、その古い調度品をしまっておく御物殿という建物を取り壊すという話が出た時に払い下げてもらいました。
いろいろな建物を見つけてオーナーに報告すると、頭の中で何か面白いところを見つけて、自分の設計の中でどう使えるかすぐにわかるようでした。おかげ横丁で見ることができる建物は、開発チームが現存する昔の建物に取材に行って、模して作っていいか交渉し、許可を得ながら一軒一軒作っていったものです。それぞれ別々の建物がもとにあるから、全ての建物に個性があるんです。建物を見て、個別に考えられるストーリーを考えたようです。例えば、「ここにはこんな主人がいて、おかみさんはこんな性格で、こんな商売をやっている。だから、こんな建物ができている」というようなものですね。このストーリーを一軒一軒考えながら作っていった。だから、一つ一つの建物にものすごくこだわりがあって作られているんです
新井:その一方で、横丁を歩くと統一性が感じられます。とても不思議ですね。今のお話では、最初に持ってくる時には、統一性がないように見えていても、オーナーが着眼している時点で、どこかに統一性があったということですよね。今街を見ると、違うところにあるものを模したという、バラバラなイメージが全くないですよね。もともとは何もないところに、いろいろなところから集めて、一つの空間を作ったということですけど、なんか統一感があるというのが、オーナーの目の付け所の違いというか、目利きのすごさのようなものを感じます。
平居:街づくりのコンセプトは、テーマパークでタイムスリップするだけというものと違って、「日本の懐かしい生活がもう一回体験できる場所」「我々日本人の原風景、生活の原風景に出会えて、そこでホッとできる場所」というこだわりがありました。「そうそう、こうだったよね」という日本人なら共感できる感覚、そこがこの町のコンセプトです。そういう意味で伊勢神宮に来る人がターゲット顧客ですから、「日本人」の全年齢が対象です。
新井:テーマパークはスペースを囲って、来場者はテーマに興味をもって集まり、入園料を払って参加し、そのスペースの中にたまたま店が入ることもあります。それに対して、おかげ横丁は囲って入園料を取る場所ではなく、アクティブな商店街という点で全然違いますよね。一つのスペースに統一感がある店が集まっていますが、普通の商店街なんですよね。
平居:オーナーは、おはらい町は赤福を包み込むベッドのようなものだと言いました。赤福という発信力のあるブランドをベッドの中に置いて、周辺のものも一緒に楽しんでもらうというイメージですね。だからテーマパークと似ていますが、入場料を取るテーマパークとは違います。一つのコンセプトに基づいて街を作ってあるという意味においては同じです。
加藤:「場」を開発して人を集めてビジネスをするにあたり、入場料としてではなく、商品購買や飲食で収益を上げるには、無秩序に再開発するのではなく、一つのコンセプトでまとめることで集客力を高めることをオーナーは目指していたのかと思います。
新井:それを一つの企業がやるというところがすごいと思います。普通の市街地再開発はいろいろな企業が参加しますが、一つの固まりを一つの企業が全部買い取って再開発したということはすごいと思います。
加藤:テーマパークを作ったわけではなく、コンセプトが明確な商店の集まりを作ったら、その周辺にその立地を使いたいという人たちがフォロワーとしてついてきているという感じですね。おはらい町の商店街は、おかげ横丁の周りにコンセプトに同調した人たちがついてきたんですね。その効果で不動産価値が上がるという相乗効果はありましたか。
平居:相乗効果はありました。おかげ横丁は赤福の前の一区画で、そこは自社が所有・運営しています。そのおかげ横丁と内宮前を通るおはらい町通りは、一部飛び飛びに物件を持っているという感じです。先ほどお話ししたようにおかげ横丁と内宮前を結ぶ400メートルくらいの間がシャッター通りだったのが、人がそぞろ歩きをする通りに変わったわけです。この変化が呼び水となって、商業が盛んになっていきました。そして、不動産価値が上がるという効果もあったんです。
加藤:伊勢神宮という集客力のある「場」があって、それに近いところにもう一つの集客力があるおかげ横丁という「場」を作ることで、その間をつなぎ、さらに町全体が活性化する状態になったんですね。
平居:その際に一つ問題点がありました。それはおかげ横丁のあたりを境にして用途地域が違っていることでした。内宮寄りの地域は近隣商業地域で、それより離れた地域は住居地域だったのですが、それを変更してもらうことができて、住居地域部分の建蔽率が60%であったのが、全部近隣商業地域として80%利用することができるようになりました。
街づくりについては、おかげ横丁を作る時に内宮門前町再開発委員会が組織され、どうしたらよいか研究を始めました。その後、実際におかげ横丁ができた後、その研究会が普通の商店街組合のようになって、おはらい町の活性化に取り組むこととなったのです。そこは参入規制や営業規制をするための組織ということではなく、どうしたらみんなで伊勢らしい街づくりを続けることができるかということを考える組織になっていきました。おはらい町会議というのが現在の組織の名前になっています。
行政等の貸付制度を活用
加藤:他の地域で同じような取組みができるのかを考えてみました。この地域には、集客力のあるコンテンツとして伊勢神宮があります。まず、これだけの集客力のある「場」はなかなかほかの地域にはないですよね。とはいえ、過疎化が進んでいる地域でも何かしら地域の文化の発信拠点みたいなものはあるように思います。おはらい町では、それを活かすようにおかげ横丁を作り、コンセプトを統一して街づくりを進めた。そこから何かのヒントが得られるように思いますがいかがでしょうか。
新井:ポイントは、資本力にあるということではないでしょうか。一つの企業でここまで引っ張っていけることが素晴らしいと思います。やはりこの140億円の資金力が他の地域では期待できない。行政は道路をきれいにして石畳の道路を作るとかできますが、それ以上のところを行政が引っ張るというのはちょっと違うと思います。地域の方々が土地を押さえて、統一感をもって進めると周辺がついていくということでしょう。
平居:そうですね。当時の役割分担を考えると、平成元年から平成5年にかけて年間1億円ずつ行政支援をしてもらうように赤福が伊勢市に寄付しました。寄付にあたり、町づくりのために有効な使い方をしてほしいという約束をしました。伊勢市は行政面で力になれる部分を補助しますという話となり、赤福は株式を使い、5億円を出しました。そのうちの3億5千万円が伊勢市町並保全基金という格好で、市の中に別基金が立ち上げられました。その3億5千万円を活かして、町の通りを中心とする地域の家の建て直しや修理に利用できる貸付制度を作ったんです。
当時は住宅金融公庫で5.5%という金利が高い時代でしたが、安く済むように考えて市の方で2%で貸し付けてもらえる仕組みを作ってもらったんです。町の家を建て直したり修理をしたりする時の貸付条件が、上限3千万円で期間20年です。その範囲でやるということにしたら、約40軒の家が修理のために申し込んできたのです。その時に伝統的なデザインで修復するという条件を付けて、それに合致しないと交付できないようにしました。赤福及びそのグループで専用的に活用するのは中心ブロックだけです。内宮と駐車場という両端を結ぶ部分は、各オーナーさんたちが自分たちの知恵で活性化してもらいました。
もう一つの取組みは、電柱の地中化を進めたことです。電柱の地中化は、この場所が全国的に見ても初期の案件に当たります。
加藤:そのための資金も赤福が出したお金が活用されているということでしょうか。
平居:そうですね。私たちが中部電力とNTTに働きかけて鋼管埋設をして地中化しました。各家庭は引き込み費用1万円~2万円の負担です。道路の舗装は、それまで継ぎはぎで絆創膏のような状態でしたが、綺麗にしないと観光客は歩いてくれないので、全部石畳の道に変更しました。道路管轄が県道と市道に分かれていましたが、つい最近になって一体管理できるように県道を市道に払い下げてもらいました。
新井:やはり、赤福さんが民間の部分を大きく越えて仕事をされていますね。今は結構補助金も出るようになりましたが、当時、電柱の地中化もまだ補助金がなかったです。自分の経験として山梨県富士吉田も景観をよくするために地中化しましたが、民間ができないので、全部県がやりました。確か1キロ地中化するのに数億円かかりました。補助金を入れてもそのくらいかかるとなると、大変です。また、県の予算を入れて富士吉田で富士山に向かう真っ直ぐの道路の部分は綺麗にしました。しかし、予算がないので、特定の場所しか実施できないわけです。それを赤福さんが、その時代にやったということはやはりすごいことだと思います。
平居:東京に呼ばれて、なぜこのような時期に地下埋設をしたのか説明をしたこともあります。
実は伊勢市は下水道整備が遅かったので、おかげ横丁を作る時には浄化槽が必要でした。電線の地中化の4年後に下水が通ったのですが、下水道の追加工事をする際に、石畳にしておいたことで路面を外しやすい形になっていて役に立ちました。
新井:実現までにいろいろと行政にも働きかけて実現したものですね。参道のようにもともとあったところですら、櫛の歯が抜けるようになっているのですから、公費で補っていくとしても、もともとの地権者にどう協力してもらうかが難しいですね。やはり自分がお金を出してまでやるというところを見せる「男気」とでもいうようなもの、それがなかなか難しい。ビジネスとして考えれば、地元の地権者と話をして調整するより、やる気のある人だけで郊外に車で行けるようなテーマパークを作るほうが早いと思います。
平居:地元の人たちはいろいろなことを言いましたが、オーナーは打たれ強かったと思います。すごい忍耐でした。自分の金でやるのにもかかわらず、気を使っていました。当時の赤福の年商は100億円程度でしたが、このプロジェクトに140億円をかけることになり、当時は夜も寝られなかったですね。
資金調達で地元の銀行はほとんど使っていません。ふるさと財団から15億円調達しました。あとスイスフラン債で10億円調達しました。これは99円82銭で発行した後、84円50銭まで円高になった時に償還したので安く調達できました。あと日本開発銀行(現、日本政策投資銀行。以下、開銀)や、中小企業金融公庫(現、日本政策金融公庫)も活用しました。伊勢市は半島振興法の指定地域であり、おはらい町のある場所は伊勢市の保存地域に指定されていたことも活かして、開銀の産業構造調整融資で38億8千万円を調達したほか、農林漁業金融公庫(現、日本政策金融公庫)から4億円と、都市銀行と地銀のシンジケートローンで23億円です。赤福の売上高は100億円ですが、利益率が高いことを評価してもらえて資金調達できたと思います。おかげ横丁は赤福が建てて、それを運営会社の伊勢福にマスターリースするスキームです。減価償却を赤福で計上するので、利益を抑えながらキャッシュはちゃんと回るようになります。
新井:お話を聞けば聞くほど、御社のスキームを他の地域・企業が真似することが難しいということがよく分かりました。伊勢神宮があればできるというものではないですね。また、歴史のある門前町があってもダメで、飛び抜けて仕切る人がいないとできないということですね。
平居:オーナーは完全に割り切っていて、おはらい町の中心部分であるおかげ横丁の部分については、全てを私のところでやるということを引き受けたうえで、あとの周辺の部分については市の行政を活用して、いろいろな貸付制度等を活用して埋めてきたということです。
500万人の集客力ある街に
加藤:おかげ横丁を作り、おはらい町が活性化したことの効果はどれくらいあったと思いますか?
平居:おかげ横丁を作るまでは、赤福の売上を地域別にみると、三重県25%、大阪30%、名古屋30%、その他15%という状況でした。それが、おかげ横丁ができた後は、伊勢市での売上高が40%ぐらいのウェイトを占めるようになりました。赤福の売上に対する経済効果は、年間15億円くらいだと考えられます。ただ、最近は核家族化の影響か、小さい容量のものが売上の主になるという変化もあり、一概に売上の金額だけで評価することが難しいです。
加藤:おかげ横丁ができたのが、平成5年ですからそれから30年経ちました。伊勢神宮には式年遷宮の儀式がありますよね。その影響もありますから、計測は難しいと思います。
平居:仰る通りです。ただ、我々の調査では、おかげ横丁の来店客数は500万人程度とみています。もちろん、最近のコロナの影響で一時的に減少していますが、ベースとして、500万人の集客力がある街を作ったということだと思います。前回平成25年の式年遷宮の翌年に、600万人来てもらえました。開業前の一番寂しかったころは20万人くらいですから、20万人が600万人にまで上がったと考えられます。
加藤:こうしてみると、難しいことを乗り越えてきたから、今の町の賑わいがあるということですね。他の地域で真似することは難しいとは思います。いろいろな条件が絡み合うことでとんでもない集客力の上昇につながったというのは間違いないでしょうか。
新井:忍耐を持って臨めたところだけが成功につながるということでしょうかね。地元はみんな応援してくれるわけじゃなく、足を引っ張る人もいるということですね。
平居:開発申請の手続きを進める時に、実際にそのようなことが起こりました。建築確認を出すために、開発手続きの申請をしなくてはいけないのですが、それを提出したら、近辺の人が60人で連判状を作って、この申請を認めてはいけないと言ってきました。我々は、そのようなことを言ってきた人の家を、個別に半年間回って説得した結果、平成3年12月30日に伊勢市役所の会議室で手打ち式をやることができて、翌年の初めに建築関係の申請が認められました。この時、説得に時間を要した結果、オープン日程が、当初の平成5年3月から7月に遅れましたが、何とか10月の式年遷宮には間に合ったという状況です。
新井:今の地方の町の再開発の成功事例として挙げられるおはらい町、おかげ横丁の苦労談を詳しく聞くことができて、大変参考になりました。ありがとうございました。
◆略歴
ひらい・はじむ 昭和16年三重県伊勢市生まれ。昭和39年株式会社赤福入社。大阪営業所長、株式会社マスヤ出向、取締役財務部長などを経て、平成2年常務取締役(おかげ横丁建設担当)。その後、株式会社浜田総業出向などを経て、令和5年より現職。公職として、内閣府景気ウォッチャー、財団法人伊勢文化会議所事務局長などを務める。