忘れられぬ味(64)虎屋・黒川光博代表取締役社長「素材を生かすということ」

菓子 連載 2001.08.22 8886号 2面

常に時代を先取りした、斬新な料理を出すという評判のシェフの店に行った時のことである。新しもの好きの私は、どんな目新しいものを食べさせてくれるのかと勇んで訪れた。そこで供されたものは、予想に反して定番料理「スズキのグリル」であった。しかし、それはフランス料理の底力をいともあっさりと見せつけられた一皿だった。パリのレストラン「ピエールガニエール」でのことである。

味付けは塩を振っただけのごくシンプルな調理法。だが、その火の通し方がどこまでも絶妙で、香ばしい皮と身とのハーモニーがあり、塩の振り方をとってもどこかに偏るということもなく、完璧な一皿だった。材料を細かく刻んだり、ソースに変化をつけてみたりと、一見手が込んでいることで味を特徴づける店が多い中、このような単純な調理法でお客を十分に満足させるとは、まさしくプロの仕事であった。塩を振って焼くだけなら誰でもできるはずなのだが、実際そうはいかないのだから、料理は奥が深い。食べ手にはそれとわからせずに、実は計算し尽くされてあの味が完成したのだろう。

パリから車を飛ばして出かけた、小さな街の旅籠。そこの朝食で出されたクロワッサンも忘れられない味だ。名もないその宿の周りには、美しい風景もなければ極上のサービスが待っているわけでもなかったが、ただただクロワッサンの味に感動を覚えた。言うまでもなくクロワッサンは、フィユタージュの生地を何層にも折り重ねたものを巻いて焼き上げた、ありきたりなパンである。パリ市内にもクロワッサンがおいしいことで有名なパン屋やホテルなどが何軒もある。けれど、この何の変哲もないクロワッサンは、そういう薀蓄など必要としない。なんともいえない素材のうまみを感じたクロワッサンだった。

昨今、日本でもシンプルな料理が人気である。けれどそれは素材がよければいいというものでもない。塩を振って焼く、生地を折り重ねたものを巻いて焼き上げる、調理法はシンプルなだけに、美味しさを出すには基本的な技術、心持ちがしっかりしていなければならない。フランスにはその伝統が脈々と流れている。食に対しての歴史の重さに感服せずにはいられない。

((株)虎屋代表取締役社長)

日本食糧新聞の第8886号(2001年8月22日付)の紙面

※法人用電子版ユーザーは1943年以降の新聞を紙面形式でご覧いただけます。

紙面ビューアー – ご利用ガイド「日本食糧新聞電子版」

購読プランはこちら

非会員の方はこちら

続きを読む

会員の方はこちら