ようこそ医薬・バイオ室へ:「毒を以て毒を制す」決定版
覚えている人も多いと思うが、一九八四年熊本で真空パック食品のカラシレンコンによる食中毒が発生し、三六人が発症、一一人が死亡した事件があった。焼酎にカラシレンコンを愛用していた私には大変ショッキングであったが、この時の原因菌がボツリヌス菌で、この菌が作るA型と呼ばれる毒素によるものであった。
この毒素は、運動神経から筋肉への情報伝達を低下させ、呼吸をする筋肉を含めた全身の筋肉を麻痺させるのが特徴。その作用機作を簡単に説明すると、運動神経の末端は筋肉に密着しているが、筋肉細胞と神経細胞との間にはわずかな隙間がある。この隙間に神経細胞からアセチルコリンという物質が放出されることにより、アセチルコリンが筋肉細胞の受容体に結びつき、筋肉の収縮が起こる。ボツリヌス菌毒素は、神経細胞からのアセチルコリンの放出を止めることにより、筋肉の収縮を起こらなくしてしまうのである。
特に、呼吸に使われるのは、肋骨の間を張っている肋間筋や胸部と腹部とを仕切っている膜状の筋肉である横隔膜や腹筋などだが、これらの筋肉が麻痺して動かなくなると呼吸が止まり、人工呼吸器による呼吸の補助がなければ死に至る。純粋な一グラムの分量は、吸入ならば一〇〇万人以上の人を殺す分量であるとされるほど恐ろしい毒素で、ベトナム戦争では実際に細菌兵器として用いられたこともあるという。
こんな恐ろしい毒素であるものの、一九七〇年代からアメリカの眼科医であるスコットらによって、この毒素を治療に使おうとする動きが出てきた。治療への応用の方法は、精製したごく少量の毒素をけいれんする筋肉に注入することによって、そのけいれんを抑えようとするものであった。
意外にもその効果は絶大で、アメリカでは八〇年代に臨床試験が進み、八九年末に初めて眼瞼けいれんに対する治療法として認可された。 日本でも九七年に眼瞼けいれんに対しての治療が認可され、二〇〇〇年に片側顔面けいれんに対して、〇一年に痙性斜頚に対して適応が拡大し、同年末までに日本全国で約一万五〇〇〇人もの患者がこの治療を受けているという。いずれも筋肉を弛緩させて、そのけいれんを止めるというものだ。
さらに、最近注目されているのは、眉間や額、目尻のシワなどの表情シワで、皮膚に付着した筋肉(表情筋)の収縮がその発生に大きく関与しているため、ボツリヌス毒素を表情筋に注入して麻痺させることで、こうしたシワを軽減・消失させようというもの。同様に、腋臭症や、脇・手の多汗症などの治療にも使われ始めており、その効果は注入後一週間ほどして現れ、一回の注射で約三ヵ月から半年程度続くことも、患者には負担が少なく使いやすいようだ。また、片頭痛にも効果があるという学会発表もあり、今後の開発が期待されている。
ところで、つい最近コマーシャルでも流れるようになったが、高齢化社会に伴い尿失禁が話題になっている。近年患者数は増大しており、尿失禁をもたらす過活動膀胱の患者数は日本で約二四〇万人ともいわれている。 なんと、今年アメリカのピッツバーグ大学のチャンセラー教授らは、尿失禁や残尿などの排尿障害の患者五〇人に対して、膀胱や尿道にこのボツリヌス毒素を注射し、その約八割の人たちに半年間も効果が認められたと発表した。つまり、毒素によって過活動の膀胱の筋収縮をブロックするということらしい。
妻は「毒を以て毒を制すやな」と言っていたが、まさにその通りで、カラシレンコンで問題を起こしたボツリヌス菌およびその毒素を、今度はトコトン利用してやろうという人類のしたたかさを感じる。ただし、注射が大嫌いな妻は「飲み薬で何とかしてほしいわ」とのたまっている。
(バイテクプログレス研究会主宰・高橋清)