ヘルシー企業の顔:加ト吉・加藤義和会長兼社長

1999.10.10 49号 12面

おいしくて簡単にすぐできる、家族のみんなが好きな冷凍の海老フライ。その誕生には戦後半世紀、世の中に求められるものを提供し続け、日本の食を見つめてきたこの人の創造性があった。冷凍食品メーカーの最大手、(株)加ト吉の加藤義和会長兼社長に、その夜明けごろのエピソードを語ってもらった(日本食糧新聞社「第二回日食優秀食品機械資材賞」ならびに「第三回業務用加工食品ヒット賞」記念講演から抜粋)

終戦の年、私は九歳でした。父親が沖縄沖で戦死しまして、四歳の弟、一歳の妹の三人の子供を抱えて、母親は二九歳で未亡人になりました。

家業は四国の瀬戸内海で獲れるカタクチイワシや小海老の水産加工業。5月から10月までがシーズンで、周りの業者は皆その間頑張れば食べていけた時代でした。しかしうちの母親は、幼い三人の子供を一人前に育て上げるために、シーズンオフの秋には農家に、冬から春にかけてはカマボコ屋さんに手伝いにいって一年中働いた。同業者が遊んでいる時も一生懸命頑張れば家庭が裕福になる。女一人でも人に迷惑をかけないで暮らせる。母親の後ろ姿から、そういう働く尊さや喜びを見て育ちましたね。

一五歳の時、高校進学が決まっていましたが、祖父が脳卒中で倒れました。いりこ・干し海老の加工はまず、原料のカタクチイワシ・小海老の買い付けのために小さい船を動かす男手が必要なんです。まさか女の母親を船に乗せるわけにはいかない。自分が進学してしまえば家業を継ぐ人がいない。家業を潰すのか、高等学校に行くべきか、悩みましたね。しかし結論はやはり家業を継ぐべきだと。友だちは皆高校に行く中で、私は仕事の道を選択しました。

朝は3時に起き自転車であの金比羅さんで有名な琴平町まで、二五キロの道のりをこいで行商に行く生活が始まりました。琴平町には5時半に着く。大きな旅館に行っても子供の私は全く相手にしてもらえない。そこで、小さい旅館や八百屋さん、うどん屋さんを狙いました。荷物の積み卸しや昼間の忙しい時にドンブリを洗うのを手伝ったり。そうやって「明日からカマボコ一〇枚買ってやる」「天ぷら一〇枚買ってやる」と言ってもらって。努力すれば道は開けるんだな、ということを身をもって体得しましたね。

行商を始めた翌年、私の田舎でもバイクが売り出されました。学校の先生の月給が七,八〇〇〇円の時代に三万五〇〇〇円です。でも私は一日カマボコを五〇〇か六〇〇本売って月に一万五〇〇〇円くらい稼いではおりましたから、買えないことはない。バイクがあればあの峠も楽に行ける。帰るのも早いでしょう。けれど一晩考えてみるとこれではバイクの後ろに積める量しか商売ができない。所詮は売り上げに限界のある一人商いだ、もっといい仕事はないかな、そんな考えになりました。

瀬戸内海では11月から4月まで海老やカニやシャコが獲れる。それを鮮魚のまま大阪や神戸に送っている産地問屋がある。私もこの商売ができないかな、と。そうすれば年間フルシーズンで仕事ができる。商売ができる。一六歳の私は、大阪の福島区の中央卸売市場に行ってみました。中央卸売市場へ足を運んだ早朝6時には、すでにセリが始まっており、活気に満ち満ちていました。鮮魚の流通機構には、荷主と荷受けと小売業との間に立ち、取引の仲立ちを業とする仲買人が介在しています。そこで、私は荷受け、仲買人の介在を省き、海老の直取引をと考えたのですが、なかなか話を聞いてもらえませんでした。やはり駄目かと半分諦めかけていたのですが、たくさんの海老を買っていた天王寺区鶴橋の鮮魚業者の後をつけて、そして体当たりで「香川県の観音寺というところの者です!」と、売り込んで商売をさせてもらえることになりました。

瀬戸内海の海洋汚染、漁獲量の減少で事業の先細りが心配される中、昭和36年から北洋産赤海老を輸入して加工を続けました。そして、赤海老をフライにし、揚げる寸前まで加工して冷凍保存の状態で売り出したらと考えました。加ト吉は、昭和37年、大手水産会社がまだ手を染めていない海老フライを戦略商品に冷凍食品市場へ参入しました。おりしも、日本は高度成長時代に突入しました。都会では人手が足りない。たくさんの人が集団就職で田舎からやってきました。そうなると産業給食の調理人が不足する。調理場に野菜や魚を持ち込んで調理していたのでは間に合わない。加工食品であれば短時間で大量に調理ができる。世の中が必要としている商品を作ったのでバンバン売れましたよ。

田舎はどうだったか。経済は発展し世の中は豊かになったけれど、農家は農業だけでは子供を大学に進学させるのは難しい、車を買うのは大変だ。どこかに働きに行きたいというニーズがあった。そこで農家の主婦が集まりやすい所に、都会の人が調理の手間を省くための加工食品の工場を建てました。

私は会社を興して四三年、商いの道に入って四八年になりますが、二一世紀を迎えるこの四,五年はインターネットを中心とした情報化社会、高齢化社会の中で、私が商売人として過ごしてきた時間と同じくらいの変革があると思います。

しかしどんな時代になっても、「経営は人に始まり人に終わる」、これが私の哲学です。熱意、やる気をもってあたれば創造性が湧き、創意工夫が生まれる。世の中が必要としているものを提供していけば、きっとまた素晴らしい仕事ができる。医学が進んで誰もが長生きできる時代に、健康の要の食を担うヘルシー企業として、まだまだ頑張っていきたいですね。

◆プロフィル

かとう・よしかず 昭和11年1月7日生まれ。昭和31年加ト吉水産(株)設立と同時に代表取締役社長に就任。昭和42年、観音寺市議会議員。昭和50年から平成3年まで16年間、観音寺市長を務める。昭和50年(株)加ト吉代表取締役会長に就任。平成8年から会長兼社長に就任し現在に至る。日本冷凍食品協会常任理事、香川県食品産業協議会会長ほか。「人に始まり人に終わる」(第一法規出版)など著書も多い。

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