だから素敵! あの人のヘルシートーク 作家・阿刀田 高さん
NHK教育テレビ『人間講座・私のギリシャ神話』に出演中の作家・阿刀田高さんは、若い頃、肺結核で二年間の療養生活を送ったことがあるという。「けれど、それがその後の私の人生の財産になったんですよ」、穏やかな笑顔の裏にある作家哲学、健康哲学を伺いに、お忙しい仕事場をちょっと訪問。あわせて3月に行われたギリシャ取材のおいしいこぼれ話もいただいた。
もう四〇年くらい前になりますか、肺結核で二年間の療養生活を送りました。それ以前に姉を同じ病気で亡くしていまして。元気だった姉が段々病気にむしばまれて命を失っていく過程をつぶさに目にしていたので、自分自身が同じ病気になり、随分と考えさせられることも多かったですね。
入院中、何が一番嬉しいかというと、三カ月ごとのレントゲン写真の結果です。先生から「良くなっているね」と着実に治っていると告げられること、これが何よりの喜びで、その日は午後いっぱい周りがバラ色になった気分になります。それが、その日の夕方あたりから逆に段々沈み込んでしまうんです。確かに病気は良くなっていると教えられたけれど、例えて言えば結局、これはマイナス5だったものがマイナス4になっただけじゃないか、と。昨日お見舞いに来てくれた友だちのA君やB君は皆、ゼロなりプラス1ないし2のポイントを確保していて、日々さらにプラス3や4にしている。僕はきょう昼間あんなに喜んだけれどしょせんゼロに向かうまでのことであって、世の中の人が誰でも持っているその状態にはまだまだ遠い。ものすごい喜びだと思ったことが結局こんなもんだと分かったところで、逆方向の悔しい、悲しい感情にとらわれるわけです。
しかし、二年間の療養生活ですからそんなことを繰り返し八回くらい経験していくうちに「ああそうか、それは確かにそうなんだ」と悟る時がありました。どう望んだって自分がA君やB君になれるわけではない。自分は確かにマイナス3をマイナス2にしているだけだけど、どう考えたって病気は現実で、この状況を少しずつ良くしていくしか道はない。それがかけがえのない自分の生き方なのだと。考えてみれば小学生でも分かることが、骨身にしみてしみじみと分かった。それが一つの大きなアベレージとなって、その後の人生、私はあまり人を羨むということがなかったような気がします。
「もう少し、こうだったらな」というハンディキャップ、弱点は、誰にもある。でも、仕方のないことなんだと。このことに気づいて非常に人生ラクになったと同時に「そうか、考えるということで変わるんだ。現実は変わらない。けれど視点を変えれば現実を別のものに感じとることができるんだ」と分かるようになりました。
こんなジョークがありますね。その昔、未開の土地に二人の靴のセールスマンが訪れた。一人は「見込みなし。当地では誰も靴をはかない」、もう一人は「見込み大いにあり。当地では誰も靴を持っていない」と報告したという。前者は、いまどうなっているか、その原因は何であるかを的確に捉える現実主義的な考え方、後者は次にどういう風にしていったら望ましいのかという夢を持った理想主義的な考え方でしょう。セールスマンとしては多分後者の考え方をする人が有能でしょう。でも、例えばジャーナリストのような職業においては前者の視点を持つことが重要です。
煎じ詰めれば人はものを見る時、いつもこの二つの見方が必要だと思うんです。車の両輪の兼ね合わせを六〇対四〇にするのか、五分五分がいいのか。それはその時々の問題ですが、基礎にあるのは必ず現実をきちっと見るということでしょう。それがなくては夢を描くことはできないように思います。
ものを創る時のスタートは現実です。ミステリー作家なんて、まるで荒唐無稽な夢のような話を書いていると思われがちですが、ベースとなるのはまず取材。現実を見ていくとその中にどうしてかな、おかしいな、なぜそんなことが起こるのかというようなことが出てきて、やっと物語が生まれるわけです。
私は今日に至るまで、大切な決断は身体の調子が悪い時はしないことを信条にしています。身体が弱っている時はやはり弱気になっていますからね。勤め先をやめて作家一本で生活していくべきかどうか悩んでいた三〇代半ばのある冬、私は風邪をひいていました。それをタイムリミットのギリギリまでの間になんとか治して、さらに自分の身体は不安定な自由業の生活に耐えられるだけの土台があるか調べるために健康診断を受けまして、初めて決断したほどです。
療養生活は大変ツライ体験だったけれど、健康を損ねたら何もできないということも身にしみて分かり、身体を大切にすることが生涯のテーマになりました。そしてその後作家としてやっていく上で、非常に重要なものの見方を骨身にしみて身につけることができた。世の中の物事にはいつも二面性があるということでしょうか。
阿刀田さんがギリシャに取材旅行に行くと、町の屋台で必ず食べるメニューがあるそうだ。スブラキという焼き肉をピタという薄い塩味のクレープのようなものでくるんだ、ギロという食べ物だ。「くるくる回る心棒に肉を巻き付けておいて脇で火を当てる。その肉の塊にナイフを適当な角度で当てて、ボロボロとカツオブシみたいに落ちてきた肉を使います。焼いている時に余分な脂は落ちるし、一緒にくるむ生タマネギやトマトも好みで『たくさん入れて』と注文できる」というから、上手に作ればかなりのヘルシーメニューだ。
「屋台でも、レストランでも、ギリシャはのんきで気取っていないところがいい。厨房にも気軽に入れてくれます。氷の上に載っている魚を指さして『あれを調理して』という感じで注文するのが普通。盛りつけにはあんまり愛嬌はないですね。サラダといってもトマトをただ二つに切ったものが出てくる。テーブルにあるオリーブオイルと塩を適当につけながら食べるだけですが、これがおいしい」。
今回の番組で阿刀田さんは、“欧米の文化はその淵源をギリシャに得ていること”“古代ギリシャ文明自体の素晴らしさ”の両方を紹介していく意気込みでいる。「いま話に出たオリーブオイルにしてもイタリアの食材として知られていますが、実際にはギリシャの方が元祖なんですよ。ギリシャを詳しく知ることは欧米を深く知ることに通じます」。欧米の食文化への造詣を深めるにもまずはギリシャの食から勉強してみるといいのかもしれない。
NHK教育テレビ「人間講座・私のギリシャ神話」4~6月 月曜日11時~11時30分(再放送 火曜日15時30分~16時)