百歳さんこんにちは:長野県・宮坂水穂さん(100歳)

2012.09.10 206号 06面
和食が中心。発酵食品もよく食べる

和食が中心。発酵食品もよく食べる

 長野県諏訪市で1世紀を生き抜いてきた宮坂水穂さん(100歳)。昨年創業350年を迎えた宮坂醸造で副社長、子会社の丸高工場長を務め、現在の肩書きは同工場の「相談役」だ。

 ◆朝礼に毎日参加 ラジオ体操も

 自宅が工場に隣接している水穂さんは毎日、工場の朝礼に顔を出す。現役は退いたが、社員25人とラジオ体操をするのが日課になっている。「社員の元気な顔を見ると安心するんです」。

 「歩くのが健康の秘訣」という水穂さんは、杖を使わず2~3kmの道のりを平気で歩き、自転車で遠くまで用足しにいく。10年も続けてきたラジオ体操が健康の“もと”になったのだろう。これまでの人生を振り返って「関東大震災に遭い、戦争では出征したが、運が良かった」と、自身に言い聞かせるように語る。

 地元の旧制諏訪中(現諏訪清陵高)を経て東京帝大(現東京大)法学部を卒業。「東大時代は、うちの会社の東京工場に住み込んで大学に通いました。卒業後、親戚の紹介で味の素に入社し、広告・宣伝の仕事に就きました」。

 昭和12(1937)年に日中戦争が勃発し、翌年召集。近衛歩兵第二連隊に入隊し、中国の“中支那”に派遣された。「3年後の昭和16年1月に帰国しましたが、7月には満州の牡丹江に派遣されました」。

 ◆思い返せば運が良かった

 満州に出兵する時には、関東軍松本連隊に入隊していた。その時の“出で立ち”を「秘匿して入隊せよの赤紙に 登山者装い営門くぐりき」と詠んでいる。「満州に渡ってもソ連とは戦わず、日米戦争の開戦で翌年ジャワに進駐したものの敗戦。オランダ・英国連合軍の捕虜となり、無人島のガラン島で建築の仕事をやらされました」と振り返る。

 水穂さんが米軍の配慮による船で帰国したのは昭和21(1946)年6月3日のこと。この日は自身の誕生日だった。「思い返せば、捕虜になって帰ってこられたのは運が良かった。捕虜になっていた時は、草ばかり食べていましたけれどね(笑)」。

 帰郷後は、父親が設立した丸高工場の2代目として「神州一味噌」「丸高しょうゆ」の製造販売に尽力し、88歳まで現役を貫いた。「内戦時に東京工場が被災しなかったのも運が良かった。他社の工場が被災したため、食料不足だった戦後はよく売れました」。運が良かったといえば、大正12(1923)年の関東大震災でも工場は被災しなかった。「出張所は多大な被害を受けましたが、いま考えてみると、震災も戦災も、災いが転じて福となったのでしょう」と穏やかに語る。

 しかし、戦争体験について「日本はあの米国に勝てるわけがないと感じていました。ハワイを攻撃して日本中が“バンザイ”した時に負けたと思いました。周囲の人、先輩からは“偉そうなことを言うな”と叱られましたが、愚かな戦争はするものではないと痛切に思っていました。戦争を引き起こし、指導した関係者の責任は大きく、愚かな戦いだったと思います」。実感のこもった言葉だ。

 ◆“和を以て尊し”が人生訓

 水穂さんの人生訓は、“和を以て尊しとなす”という聖徳太子の言葉だ。「つまり、従業員全てを大事にするということです」。社員は毎日、水穂さんの元気な姿を見て、安心して仕事に励んでいる。

 健康法を問うと「遺伝でしょう。父は84歳、母は81歳まで、祖母は70歳まで生きましたから」と笑みを浮かべる。病気を患ったことはない。「健康を保つには食事が第一」と言い、「和食が好きで野菜は何でも食べます。肉類はあまり口にしません。みそや納豆などの発酵食品が良いでしょう。時間をかけてゆっくり食べることを心がけています」とのことだ。

 100歳にして元気ハツラツな水穂さん。1日2000歩を自分に課している。

 *

 あなたの周囲の元気な99歳(白寿)以上の方をぜひご紹介ください。

 百菜元気新聞編集部 電話03・6679・0212

購読プランはこちら

非会員の方はこちら

続きを読む

会員の方はこちら

関連ワード: 味の素