10月10日。今日はおもちの日
10月10日は全国餅工業協同組合が制定したおもちの日。日付の並びが、角もちと丸もちが並ぶ姿に見えることなどに由来する。
全国に流通させるために進化した餅
“もち”そのものは歴史が古く、縄文時代からあったといわれている。しかし、その時代は雑穀の粉を水でこね、蒸上げて搗(つ)いたもので、“もちひ”といわれるものであったという。 歴史上“つきもち”が認められるのは天平年間になってからで、公家の家庭を中心として式事に神聖な食物として取り扱いわれ てきた。しかも当時、“つきもち” は官営事業であり、これを担当する大臣までいたという。
これが民間のものとなったのは平安中期といわれ、これを商売にする人も出てきた。徳川時代となるとこれが正月、その他年中諸行事のなかに採り入れられ、ますます盛んになった。祭礼、慶事、仏事、凶事の供物として主役となるにいたった。
そして、これらの餅は自家製もあったが、“もちはもち屋”と いうことわざがあるように、一種の専門業として発展をとげた。
一方で、このような古い伝統をもつ専門業が、明治の新しい革新の時代を迎えて大企業への道を進みえなかったのは“もち” が“もちはもち屋”という言葉とはうらはらに、ある程度のものなら誰でもできる食品で、しかも貯蔵性がなく、商品として広い流通の場をもちきれなかったためで、わずかに地域をかぎった短期流通の商品であるためであったと思われる。
そのため1955(昭和30)年までは菓子屋と兼業のかたちで店頭売りを中心として“つきもち” が季節や注文に応じて売られてきたのである。
時代が進み、流通機構が機動性をもって確立され、消費生活の意識が家庭に浸透すると、“もち”は自家製造よりも店頭買いが要求されるようになる。1953(昭和28)年頃になると、新潟地区を中心に白玉粉メーカーの間に仕事の閑散期である12~1月に正月用の餅を対象として製造し、これを切り餅として段ボールに入れて、主として北海道に出荷が試みられるにいたった。
出荷が12月~正月で、しかも主として北海道という寒冷地への発送であったこともあって、これは一応成功であった。これに意を強くして1954、55年と白玉紛の作業の間をぬって正月用を目的とした“切り餅”が製造出荷された。しかしその出荷の量が多くなるにしたがって、正月用を11月中旬から製造にかか らなければ間にあわなくなり、加えて作業も粗雑となり、工場の衛生管理も不充分となり、その結果、カビが発生して数多くの返品で苦境に立つこともしば しばであった。
このような状況のなかで、しだいに製造メーカーも多くなり、企業競争が激しくなるにつれて出荷先も北海道から東北、関東、東海、さらには関西としだいに南下した。それとともにカビの発生によるクレームが増加。それによる返品も業界の大きな問題となってきた。餅の防腐剤については、餅が主食であることもあって、食品衛生法で許可となっているものはない。しかも切り餅の製造は発足から日も浅く、県の指導も、また業者間の相互の研究連絡もないまま、薬品メーカーの「もちにつきもののあんは許可されているが」という指示で、わらをもつかむ思いで、デヒドロ酢酸、デヒドロ酢酸ソーダを取粉に混合使用することにより、防腐し出荷するにいたった。
1963(昭和38)年12月28日に北海道で、次いで30日に静岡で食品衛生法違反として摘発され、いわゆる毒餅事件が発生。業界は完全にストップした。しかもその量は発足10年にしてはあまりにも多く、1,000tもの“切り餅”が廃棄処分となったのである。新潟県切り餅業界は大打撃を受けた。しかしこの大打撃は、 ある意味では好結果をもたらし、今日の包装餅の登場のきっかけとなったのである