2月7日。今日は長野の日(オリンピックメモリアルデー)
1998年2月7日、長野で冬季オリンピックの開会式が行われた。
長野で生まれ、長野で育った高野豆腐
長野県のシミ豆腐製造には、佐久式と諏訪式とがあったが、両製法の大きな相 違点は、凍結後の熟成を自然にまかせるかどうかだった。東北地方から北関東にかけての広大なシミ豆腐圏は、ほとんど自然熟成法をとったが、信州では逆 に佐久地方だけが自然法、大部分の地域が関西式に似た人工熟成法であった。シミ豆腐は、明治時代から岐阜、山梨、福島、 宮城、岩手、山形、秋田、青森の各県でもつくられていた。
1901(明治34)年9月に当時米国のコロンビア大学を卒業後、日本冷蔵商会を創設した中原孝太が、凍り豆腐の人工冷凍に成功し、人工凍り豆腐の特許を得た。この発明は、天然豆腐を製氷冷却器で冷却した密閉室内に置き、これを撹拌機と扇風機を利用して急速に凍結させ、 同時に水分を蒸発させる方法で、天然凍り豆腐でなし得なかった均品質の通年生産が可能になった。その後、同氏は、丸冷の人工凍り豆腐として売り出し好調であったが、これに脅威を受けた天然高野豆腐業者が対抗策を講じ、対立が深まった。天然と人工冷凍とが互いに市場獲得を目指しての角逐抗争に明け暮れするうちに、明治時代は終わった。
大正時代は、欧州大戦の影響で高野豆腐は再び活況時代を迎え、天然、冷凍両者の市場争奪戦も自然に解消し、騰勢を続ける相場に天然業者たちは、驚喜 し全盛期となった。現在主産地となっている長野県で1923(大正12)年、山田彦三郎が高野豆腐を初めて製造した。その後23 (大正12)年に県が奨励副業として取り上げ71名になった。その頃の製法も関西式とは別に種々の発明によって独自の信州方式 を生み出し、県産物の評価を高めることに成功した。
(日本食糧新聞社『食品産業事典 第九版』(引用箇所の著者:西澤貴寛 ))