7月5日。今日はきな粉の日
7月5日は全国きな粉工業会が制定したきなこの日。きな(7)こ(5)の語呂合わせに由来する。
かつては地方の花形商品
きな粉は、大豆を煎って薄皮を取り除いて粉にしたものであ る。製品化、企業化されて業界 が形成されたのは、明治後期から大正時代にかけてだとされている。その全盛時代は大正から 昭和15年頃にかけてである。きな粉は、穀粉の上新粉と兼業で製造されていた。関東では、東京深川の平林林平商店から独立した大森の黄金印・田中製粉所と高田馬場の福禄寿印・後藤製粉所の両社が勢力を二分していた。江戸川のヤマ宮印・加藤産業、東十条のヤマ清印・佐藤製粉所(現・富士食糧)、その他に 永田商店、高貫商店、中惣商店など15、16軒が競っていた。
昭和12(1937)年7月に始まった日中戦争(当時は日華事変とよばれていた)が激しくなり、食品製造業にも原料、配給、価格、企業整備等々の統制令が矢 継ぎ早に発令された。きな粉業界もこれらに対処して、大豆原料の配給確保のため東京黄名粉工業協同組合が設立された。設立年月は不詳だが、おそらく食品産業の企業整備や組合整備等の進捗からみて、昭和14、15年の頃だと推定される。やがて太平洋戦争に突入。そして昭和20(1945)年8月終戦。食品産業は復興期を迎え、きな粉も昭和24 (1949)年以降、戦前からのメーカーが復活するとともに、新規参入が増えていった。地産地消の代表であり、地方との交流により各地に伝承されていた郷土料理とともに、乾物業界の花形商品へと脱皮していった。
原料の大豆も、北海道産小粒大豆、米国イリノイ州産大豆、中国産大豆、うぐいすきな粉 (青きな粉)は岩手産、会津産金神(こんじん)大豆が中心に使われていたが、現在では60%にあたる大豆原料が米国産、カナダ産で占められている。きな粉需要は、東京を中心に正月のもち需要に、うぐいすきな粉は東北、北海道を中心に売れていった。昭和35(1960)年頃まで、家庭用、製菓用向けに年間1万tをはるかに超える生産を続けたが、食生活の変化から年々下降線をたどった。
(日本食糧新聞社『食品産業事典 第九版』(引用箇所の著者:服部 博、三井伶子))