11月7日。今日はソースの日
11月7日は日本ソース工業会が制定したソースの日。日付は日本ソース工業会が設立されたのが1947年11月7日であったこと、さらにウスターソースは100グラムあたり117キロカロリーであることに由来する。
ウスター市で生まれたウスターソース
わが国でソースといえば一般的には、ウスターソース、中濃ソース、濃厚ソースすなわちウスターソース類のことであり、本項でもそれに限定して記述する。
ウスターソース類は、その名の通り、イギリスのウスター市から世界に広まった。1800年代の中頃、M.Sandyがインドのベンガル州総督の勤務を終え、帰国する際、ソースの調合法を持ち帰り、ウスター市で2人の化学者J.LeeとW.Perrinsにソースの製造を依頼した。そして新しいタイプのソースをつくりあげた。これが好評であったので“ウスターソース”の名で製造を始めた。ウスターソースの製造者として、現在もウスター市で盛業中のリー・アンド・ペリン社である。
わが国には江戸時代末期から 明治維新にかけて西洋文明と時期を同じくして伝えられた。チョコレートやチーズなどの新しい食品とともに、東京、横浜や 神戸などで出始めた洋食屋で使われ始めたといわれている。
ウスターソース本来の使い方は、スープやシチュー、ジュースなどに数滴落として風味をつけたり、味つけに使うものである。しかし、日本には醤油を料理にかけて食べる習慣があったため、この輸入された醤油に似ている調味料を醤油と同じような感覚でたっぷりかけて使ったところ、酸味や香辛料が強ぎ、 とても日本人の口にはなじまなかった。そのため、日本人の味覚に合うよう種々改良され、現在の日本的なウスターソースが誕生した。
ソースの製造に初めて着目したのはヤマサ醤油の七代目浜口儀兵衛氏である。彼は1885(明治18)年にニューヨークで客死したが、通訳として随行していた高島小金治氏が製造法を習得して帰国し、八代目浜口儀兵衛氏の下で製造したが“ミカドソース”である。“新味醤油”の商標をとって売り出したが、一般の人々に味がなじまれないまま、わずか1年で製造は中止された。
ミカドソースの製造中止後7 年たった1894年に関西の三ッ矢ソース本舗越後屋から「三ッ矢ソース」が発売され、96年には「錨印ソース」(現イカリソース)がイギリス入デビス氏の指導をうけて“洋醤”と名づけて発売、さらに98年、野村洋食料品製造所が“白玉ソース”を製造・販売した。
関東では東京の伊藤胡蝶園が “矢車ソース”を97年に販売している。 一方、1895年頃から本場のウスターソースが輸入され始めたが、この輸入ソースと自家製のソースをブレンドして、1900年に発売されたのが“日の出ソース”である。
関東で本格的にソースが製造され始めたのは関西よりも10年近く遅く、1905年の小島仲三郎氏による“ブルドックソース”で、翌06年、大町信氏による“MT 大町ソース”、12年には荒井長治郎氏による“スワンソース”が発売された。また、中部地区では、1908年、蟹江一太郎氏が“カゴメソース”の発売を始めるなど、明治後半には、多種多様なソースが登場し、日本のソース業が勃興した。
こうして徐々に日本人にウスターソースが知られ、利用されるようになると、その他の洋風調味料も使われるようになった。
昭和40年代の経済成長期を迎え、量産化の時代に則して設備の改善自動化を図り、品質も向上し、容器包装も改善され、著しい需要の拡大をみた。また、 製造方法に改良が加えられ、直火釜炊き上げ式に変わり蒸気加熱方式などが用いられるようになった。
(日本食糧新聞社『食品産業事典 第九版』(引用箇所の著者:一般社団法人 日本ソース工業会 堤 隆))