グルメな食事が高齢者の嚥下障害を防ぐ 新たなビジネスチャンスも
わが国は超高齢社会に突入しており、それに伴う嚥下(えんげ)障害と誤嚥(ごえん)性肺炎、およびその対策としての嚥下食のことが近年、マスコミを通して盛んに流布している。しかし、いわゆる嚥下食、つまりペースト状にしてゼラチンで固めたり、増粘剤を使って誤嚥を防ぐよりも、グルメな食を楽しむことが、高齢者の嚥下障害を防ぐのではないかという考えもあり、成果を挙げているデイサービス施設もある。グルメな食が高齢者の福祉につながると言うのならば、これは、高齢者層向けの食ビジネスの新たな掘り起こし、マーケットの拡大につながるのではないだろうか。そこで、嚥下障害対策が生み出すビジネスチャンスについて考えてみたい。
嚥下食の安易な適用は危険
本来嚥下食は、著しく嚥下能力が衰えている者の機能を回復するためのリハビリ食。口から食べることで食べる機能を維持・回復させ、最終的には普通の食事が食べられるようにすることを目指すものである。
出典元:聖隷三方原病院嚥下チーム「嚥下障害ポケットマニュアル」(医歯薬出版)
それが、「むせるようになった患者には嚥下食」「さらに機能が衰えた患者にはより飲み込みやすい嚥下食」と、先回りして病院・施設で用いられるようになり、近年は一般家庭でも取り入れられるようになった。
高齢者のデイサービス施設などを手がけるヘルシーピット代表・管理栄養士の杉本恵子氏は「病院・高齢者施設のまずい食事、行き届かない食サービスが、食べる意欲の減退を生み、嚥下機能を低下させている」と指摘している。
私が月刊「食生活」の編集者として取材してきた経験から言うと、スタッフが誇りを持って仕事に取り組み、おいしくて安全な食事を適切に提供している病院・施設は結構多い。しかし、食事がダメな病院・施設はそれよりもはるかに多いというのが、わが国の現状であろう。
食事がまずい大きな理由として、献立を制作している管理栄養士はよく、「病院・施設では減塩調理が基本だから」であるという。しかし、果たしてそうだろうか。例えば天然のだしをたっぷり効かせた料理は、減塩でもおいしいものだ。そのほか、大きな要因としては下記などが考えられ、細かいことを挙げればキリがない。
・管理栄養士がカンファレンスでおいしい食事の治療効果をプレゼンできず、食費の予算が削減されてしまう。
・削減された予算の中でまかなうため、冷凍食品の利用が多い。
・栄養士・管理栄養士養成施設では臨床栄養学や解剖学などの多岐にわたる学問を習得しなければならず、実践的な調理学の勉強が不十分であることが多い。それゆえ、予算に合わせたおいしいレシピ、献立を作ることができない。
・卒業後も料理のスキルアップを目指してセミナーなどに参加することが少ない。
・喫食の時間が不適切。
・食堂に移動できないわけでもないのにベッドで食事をさせる。
・まだ嚥下機能が十分ある者に対しても、嚥下障害のリスクを恐れて、嚥下食を与えてしまう。
特に、最後に挙げた、「まだ嚥下機能が十分ある者に対しても嚥下食を与えてしまう」というのは問題だ。少しむせたからといって、あるいはむせていなくても衰えた高齢者だからといって、安易に嚥下食を用いると、リハビリどころか、前述の杉本氏の発言のように、患者の摂食・嚥下機能を衰えさせてしまう可能性がある。
飲み込みやすい嚥下食に慣れてしまい、嚥下機能が低下するのだ。また、味気ない食事が嚥下障害を起こすのだとしたら、それを刻んでとろみをつけた食事では、嚥下障害事故は起こらなくても、さらに嚥下機能低下が進むのは当然と言えよう。
嚥下食の技術は、美味しくないものを飲み込ませるために開発されたものではない。これでは、聖隷三方原病院嚥下チームら先人たちが積み重ねてきた研究に泥を塗るようなものである。
嚥下障害は美食が防ぐ
杉本氏が代表を務めるヘルシーピットは、「ミールクリニック」「デイサービス」「商品開発」などさまざまな事業を展開している、管理栄養士の働く会社である。デイサービス事業では、東京都世田谷区成城学園の駅前に「レストランデイTEA倶楽部成城」と「アクティブデイ成城」の2施設を展開。食事にこだわったTEA倶楽部と体を丈夫にするアクティブデイ、それぞれ特徴が分かれている。
TEA倶楽部では、利用者が全員正装で、身だしなみを整えてやってくる。摂食・嚥下の最初の段階は「先行期」という、目で見て食べ物を認識するところから始まるとされているが、その前に食べる者の身だしなみや、テーブルコーディネートなどの環境作りも重要である。それらがきちんとできていることで、嚥下障害をかなり防ぐことが可能になる。
TEA倶楽部の食材の多くは契約農家から仕入れている。そして、それらが調理〜盛り付けされる工程はオープンキッチンで行なわれるため、自由に見ることが可能である。料理ができる工程を見ることで食欲は増す。
料理は前菜、メーン、デザート、飲み物と、フルコースのスタイルでいただく。嚥下食はまったくない。にもかかわらず、利用者が誤嚥を起こすことは一例もないという。嚥下障害は美食が防ぐのだと言っても過言ではないだろう。
これからの高齢者の食事を、「低価格、減塩、まずい」から、「グルメでおいしい」にシフトしていくことで、高齢者の生活の質は向上し、栄養状態も良好になり、健康寿命の延伸も可能になると思われる。
急増する高齢者たちが超高齢になってもグルメであり続けるよう導いていくことは、高齢者層向けの食ビジネスの新たな掘り起こし、マーケットの拡大となろう。キーワードは「ガストロノミー(美食学)」。美食と言っても、高級レストランを毎日渡り歩くことのみを言うのではない。食をおろそかにせず、楽しむことである。
例えば炊飯器一つをとっても、現在は各メーカーの研究は進んでいる。それぞれ特徴を持ったおいしいご飯を炊くことのできる炊飯器が開発されている。さらに、それらのうちのどれが、高齢の「その人」にとって最もおいしいと感じることのできる炊飯器なのか、例えば家電量販店の店員が、その嗜好(しこう)をくみ取って、その人にとって最もふさわしいものを勧めることができれば望ましい。
そのために店員が陳列された炊飯器すべてで炊飯を試しているとすれば、そのニーズに応えることができるのではないか。高齢者との対話力に長けていることは言わずもがなである。こういうことが、「食ビジネスの新たな掘り起こし、マーケットの拡大」を生み出すのだと思われる。
美食という言葉の持つ意味は
2019年11月、特集「“ガストロノミー”ってなに?」を組んだ雑誌「自遊人」の編集長・岩佐十良氏は、優れたレストランで目にしたものは、「想像を超えた人間力」だったと述べている。
「何より大切なのは、店そのものが持つパワー、入った瞬間、そして食事をしながら感じる、全てが醸し出す総合的なパワーなのです。」(「自遊人」12ページ「美味しい料理を作る意味」)
手を抜かない手作り料理、作る側と食べる側が心の交流(コミュニケーション、キャッチボール)をすることのできる料理、創意工夫を怠らない料理、刺激・感動を呼び覚ます料理、作る側のメッセージが伝わる料理、食べた後に感謝の気持ちが芽生える料理……。
美食という言葉には、希少価値の超高級料理という意味以外にも、このようなさまざまな要素が含まれており、岩佐氏はそれを一言で「人間力」「パワー」と呼んだのであろう。
そのようなポテンシャルを秘めた食ビジネスの誕生は、高齢者の嚥下障害を防ぐにとどまらず、食事を楽しむ人の知性を刺激する。あらゆる人々にとって喜ばしいものになるに違いない。高齢者の食を美食にすることが、超高齢社会の現代に求められている。(「食生活」元編集長 清原修志)