海外日本食 成功の分水嶺(165)寿司職人 井上健太郎さん〈上〉
●父と同じ「和」の志継ぐ
タイ最北端チェンライ県の山間部で日本原産のそばを栽培し、バンコク首都圏の高級料理店などに出荷していたそば職人を覚えているだろうか。北海道釧路市出身の井上和夫さん。コロナ禍の2021年9月に亡くなり、現地で荼毘(だび)に付された。享年75。「腹をくくった」と生前に話していたとおり、日本に帰ることは最後までなかった。
その長男・健太郎さん(31)と出会う機会に恵まれた。場所はバンコク中心部にある高級ホテル「ブルマン・バンコク・キングパワー」。その中庭にこぢんまりとたたずむ完全予約制の高級寿司店「天狐(てんこ)OMAKASE」。そこが彼の勤務先だ。そう、井上さんのご子息は父と同じ「和」の志を継いだ寿司職人であった。
コの字型のカウンターに8席だけの店。メニューは「OMAKASE(お任せ)」の一品のみ。ランチは一律1人2900バーツ(約1万1000円)、ディナーは5000バーツと7000バーツの2種類から選ぶ仕組み。寿司店とはうたっているが、天ぷらや焼き物、煮物まで一通りをコース料理で提供する。値段も味もバンコクよりすぐりの超高級和食店だ。
健太郎さんは昨年12月から、ここで料理長を務めている。前任だった日本人シェフの下で副料理長として働いていたが、上司の退職にともなってそのまま昇格となった。とはいえ、初めてのトップ。戸惑うことばかりで、気の休まることは一度もないという。
ただ、昨年後半にコロナ規制がほぼ全廃されたことから客足は回復の一途。所得の向上したタイ人客を中心に来店がひっきりなしといい、予約の取りにくい店として早くも知られるようにもなった。
同店のこだわりは徹底した「日本」だ。食材のほとんどは東京・豊洲市場から空輸で取り寄せる。鮮魚については、ほぼ100%日本近海産だ。仮に、鮮度抜群の地場の魚があったとしても、それは使わない。南洋で捕れたものと北洋産は味も食感も大きく異なるという考え方があるからだ。
店が建つ中庭の造りや店構えにも、こだわりは十分に感じられる。自然との調和を大切に「和」で統一した色彩と様式。空間だけを切り取れば、ちょっとした日本小旅行が楽しめる。妥協を許さずに細部までを造り込んだ「日本」がここにある。
この場所で健太郎さんが提供するのは「伝統的でシンプルな日本食。江戸前なら江戸前らしく、奇をてらったことはしない」という強い信念を持つ。ありがちなタイ風にアレンジすることも絶対にしない。寿司職人の道を選んだ時に、きつく胸に誓ったことだ。
飲食業界に飛び込んで今年で丸10年。念願だった料理長にも就くことができたが、一つだけ心残りがある。「父の目の前で寿司を握ることができなかったこと」と健太郎さん。父もきっと楽しみにしていただろうと思っている。だからであろう。今も時折感じることがある。仕込み時に、接客時に、カウンターの隅っこから父がそっと見守ってくれていることを。
(バンコク=ジャーナリスト・小堀晋一)