海外日本食 成功の分水嶺(175)町中華「福いち飯店」〈上〉

外食 連載 2023.10.27 12666号 06面
9月に開店したばかりの町中華「福いち飯店」と店長の長谷俊也さん=タイ・チョンブリー県で小堀晋一が10月1日写す

9月に開店したばかりの町中華「福いち飯店」と店長の長谷俊也さん=タイ・チョンブリー県で小堀晋一が10月1日写す

 ●再起懸け町中華で勝負

 今年9月5日、タイ東部チョンブリー県シーラチャー郡。日本人が3000~4000人は暮らすとされるこの街に、町中華「福いち飯店」は誕生した。周囲には日本式の居酒屋や寿司店、日本食材を扱う食品スーパーは複数あれど、日本で近所の住人が普段使いするような町中華は、これまで不思議なことに出店例はなかった。昼食に夕飯に、この街で暮らす日本人らの胃袋を満たす食堂として早くも盛り上がっている。

 シーラチャーは人口30万人ほどの地方都市。海辺に位置し、もともとは小さな漁村にすぎなかったが、タイの工業化とともに工業団地が整備されるなど開発が進行。今では数千は下らないとみられる企業が工場や事務所を構えている。うち、日系企業も1000事業所前後はあるとみられ、家族ともども駐在する日本人も少なくない。このため、街のあちこちに日本語が散見されるなどちょっとした日本人街の様相を呈している。

 一帯には日本人の生活様式にあった不動産物件が立ち並ぶほか、前述のような飲食店やスーパー、パン店もある。駐在員の子どもが通う小中学校として「シーラチャー日本人学校」も2009年に開校し、今年4月時点で約400人の小中学生が日本と変わらぬ義務教育を受けている。学習塾や習い事教室などもある。

 新規開店した町中華「福いち飯店」を店長として仕切るのは、在タイ10年を超えた長谷俊也さん(42)。生まれも育ちも生粋の大阪人。その人がどうしてタイの地方都市で暮らし、町中華の経営に携わることになったのか。それにはとある理由があった。

 16歳の時から大阪の飲食業で働いたという長谷さん。22歳の時には、たこ焼き店に就職した。ここでたこ焼きの技術を習得。イベントなどに参加しては、その腕を披露していた。

 タイで催事があり出展を求められたのは2011年。大阪から出張し、初めて南国の空気に触れた。おおらかで明るい人々。一発で心が奪われた。ちょうどそのころ、タイにある日系居酒屋が人材を募集していることを知り、一も二もなく飛び込んだ。異国での店づくりから仕入れ、接客まで一通りを学んだ。

 居酒屋で経験を積んでいく中で、次第に夢を見るようになった。いつしか自分の店を持ちたいと。こうして出店に及んだのが「たこ焼き1048」だった。数字は自分の名前から採った語呂合わせ。バンコク中心部から少しだけ北に行ったローカルエリアの商業施設に店を構えた。タイ人客が狙いだった。

 ただ、出店したのが新型コロナ第1波後の2000年夏という時期。年末には第2波が到来し、店内営業が禁止された。それでも持ち帰りや宅配などで対応したが、年明けには入居する商業施設そのものが閉鎖となり、わずか1年で涙の撤退を余儀なくされた。

 その後は、知り合いの飲食店を手伝うなどしていたが、どうしても脳裏に浮かぶのが自分の店の再興だった。しかし、負債もあり直ちには動けない。こうした時に声を掛けてくれたのが、知り合いでもある飲食店のオーナーだった。「シーラチャーに町中華を出店したい。すべてを任したい」。その心意気に胸が打たれた。「ここで再起を懸けよう。リベンジだ」。町中華「福いち飯店」が誕生した瞬間だった。

 (バンコク=ジャーナリスト・小堀晋一)

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