海外日本食 成功の分水嶺(119)ラーメン専門店「ROCKMEN」〈上〉
●スープ飲み干した90歳のタイ人客
「その時に受けた衝撃は決して忘れることができない」と話すのは、タイ・バンコクで2021年1月下旬に新規オープンしたラーメン専門店「ROCKMEN」のマネージャー井上虫歯二本(本名・慎史)さん(42歳)。開店から間もない同月末、やってきたのは車椅子に乗ったタイ人客のおばあちゃん。卒寿を迎えたばかりの90歳。人気を聞きつけ、家族で初来店したのだった。
もともと麺の量も多く、天然素材の味が凝縮した井上さんのラーメン。「そんなものを果たして高齢者が食べられるのか」。心配が脳裏をよぎった。
「失礼ですが、味を薄くして麺の量を減らしましょうか」と井上さん。ところが、女性客はかくしゃくとした様子で、「いや、普通のままでええ」と言う。不安を残しながらも調理して出したのは、丁寧に仕上げた濃厚だしのしょうゆラーメン。同店イチ押しの逸品だった。
無言で食べ続ける女性。箸が休まることはない。井上さんらも固唾(かたず)をのんで見守っている。麺を平らげ、残るはスープだ。すると、女性はどんぶりを両手で持ち上げると、一気にそれを飲み干した。器を置いて飛び出したのは「ああ、おいしかった」の一声。誰からともなく歓声が沸いた。
所得が向上する一方で、少子化が加速度的に進むタイ社会。健康への関心は日増しに強まっていて、大衆食のラーメン業界にもその波は広がっている。数ある日本式ラーメン店の中でも、このところ人気を集めているのは健康に配慮した品々だ。素材そのものの味に、人々は価値を見いだし始めている。
井上さんが店を出した場所は、大通りから一本入ったいわゆる裏道。交通量はあるものの抜け道として機能しているため、なかなか客足に恵まれない。過去同じ場所に出店した飲食店がいくつもあったが、いずれも短期間で廃業となった。いわくつきの物件だった。
「ROCKMEN」は日本語で書けば「六九麺」。東京・高円寺駅近くで井上さんが3年前に開いた「六九麺」の姉妹店だ。あの時も同じだった。同駅周辺は日本でも屈指のラーメン激戦区。同じビルだけでも四つの店がありしのぎを削っていた。「やめておいたほうがいい」と周囲はみな反対。その中で井上さんだけが、「丁寧に素材から作っていれば、必ずお客さんは来る」と信じていた。
「熱帯のタイで、日本と同じように素材からラーメンを作るのはとても難しかった」と井上さん。だが、妥協は一切しない。日本産桜エビのエキスから煮た塩ラーメン向けピンクの煮卵は、見た目の美しさもあって早くも人気商品に。下ごしらえから調理、盛り付けまで、全てに丁寧さを心掛けている。
1日当たりの供給量を69杯までと決めているのも特徴だ。何てことはない。「自分一人でできる限界がそれだから」と。自分で回せるだけに止めておけば、味のブレもなくなるばかりか、食材のロスも発生しにくくなる。計算され尽くしたラーメン職人の知恵だ。
(バンコク=ジャーナリスト・小堀晋一)