海外日本食 成功の分水嶺(123)バー「夜食堂」〈上〉
●チェンマイの集いの場所
タイの首都バンコクから北に約700kmのチェンマイ県旧市街。城郭の少し北外れのローカルエリアにその店はある。バー「夜食堂(やしょくどう)」。3坪(9.9平方m)ほどの小さな店。カウンター6席に、2人掛けのテーブル席が四つ。うち三つは、路上に飛び出した青空席となる。ここに毎夜代わる代わる集まるのが、なじみの常連客やうわさを聞きつけた旅人たちだ。今日も夜な夜な遅くまで、尽きない話で盛り上がっている。
オーナーの小林史佳さんが2019年5月にオープン。北タイの玄関口チェンマイで当地を訪れる旅人の、そして地域で暮らすタイ人・日本人の交流の場所となればと考えた。
チェンマイは古くから、無数のゲストハウスやカフェ、バーが立ち並ぶ観光の街。ところが近年は、地価の高騰などから大家が契約更改を拒絶し、惜しまれながらも閉鎖を余儀なくされる施設が後を絶たないでいる。減りつつある集いの場にしたかった。
小林さんがタイの大地を踏んだのは03年初め。3年後には縁あって、チェンマイでゲストハウスを経営することになった。程なくしてタイ人の夫とも出会い、結婚。子宝にも恵まれた。
自分の家であって、自分の家でないような場所。気が付いたら常連客や顔見知りが集まっていて、「今日の晩ご飯、何にする?」とワイワイガヤガヤ。持ち寄った食材で即興の料理とミニパーティー。そんな空間が楽しかった。
ところが、契約更改で折り合いが付かず16年5月限りで閉鎖することに。他にも物件を探したが、すっかり高騰してしまった相場に手も足も出なかった。
不幸も重なった。夫が脳出血で倒れ、帰らぬ人に。一人娘はまだ小学生。ふびんでならなかった。病床で夫は言った。自分の人生に何ら悔いはない。君も、君らしく生きろと。そんな時に声を掛け勇気付けてくれたのも、かつての常連客たちだった。「人生一度きり。失敗したっていいじゃない。やってみよう」。こうして決断したのがバー「夜食堂」の出店だった。
メニューはカレーにハヤシライス、ナポリタン、豆腐ハンバーグなど空腹を満たしてくれる家庭料理と、酒のつまみにもなる手製のぬか漬けや塩だれ味卵など一品料理が中心。自宅で下ごしらえし、温め直すなどして提供している。
バーと名乗るだけあって酒類も豊富で、ウイスキーにウオツカ、ジン、日本酒と多彩な品揃え。通常、酒量はシングル、ダブルの2区分だが、最近は客のリクエストに応えて1.5というこまめな注文にも応じている。気さくで、誰とでも仲良くなれる小林さん目当てに訪れる客も多い。
店は午後6時過ぎには開店するが、2時間ほどはアルバイトのタイ人大学生が店番。夕食や勉強など子どもの世話を終えた小林さんが8時過ぎから店に立つ。常連客もこのころになると一人二人と顔を見せる。
今夜もワイワイガヤガヤ、よもやま話で盛り上がる。あの山で花が咲き始めた。イベントが始まった。そんな情報交換の場所にもなる。タイ人も訪れる小さな店が、今日もにぎわっている。
(バンコク=ジャーナリスト・小堀晋一)