海外日本食 成功の分水嶺(125)日本食レストラン「なると」〈上〉

連載 外食 2021.06.14 12243号 03面
日本食レストラン「なると」のオーナーの末松倫太郎さん=タイ・チェンマイで小堀晋一が4月1日写す

日本食レストラン「なると」のオーナーの末松倫太郎さん=タイ・チェンマイで小堀晋一が4月1日写す

●狙い的中 地方にあった潜在需要

タイ北部・古都チェンマイの旧市街から北東に5kmほど。北に延びる主要道路と環状バイパス道路が交差する辺りに商業モール「ミー・チョーク・プラザ」はある。2010年に全面拡張。低層2階建て建屋に入居するのは、飲食店やマッサージ店、銀行、雑貨店など多種多彩。その2階の一角に、北九州市出身の末松倫太郎さん(36)が経営する日本食レストラン「なると」がある。

開業は10年11月。昨年末、満10年を迎えた。今から10年以上も前のチェンマイは、まだ本格的な日本食店は指折り数えるほどもなかった。日本食を少しかじっただけのタイ資本の“なんちゃって日本食”が、わずかに点在するだけだった。

一方で、TVなどでは美食の国「イープン(タイ語で「日本」を表す)」をめぐる話題が盛んに取り上げられようとしていた。旅行に史跡巡り、そして食べ歩き–。空前の日本ブームを迎えるタイミングと出店時期とが見事に重なった。「なると」の出店は多くの日系資本が注目する成功事例の一つに映った。

「狙いは的中。お客はひっきりなしだった」と末松さんは振り返る。タイ第2の都市チェンマイであっても、その経済規模は首都バンコクの数十分の一。日本への旅行経験があったり、本格的な日本食を味わったことのあるタイ人客はまだ少なかった。他方で、中産階級の所得水準は着実に上昇していた。潜在需要はバンコクから遠く700kmの北の大地に眠っていた。

「なると」の店名は、チェンマイで一緒に暮らす父の新吾さん(68)と考案した。日本にいた時から、力強く四国・鳴門海峡を流れる渦潮が好きだった。「俺たちがチェンマイの渦になろう」と語ったという新吾さん。息子がその夢を結実させた。

出店前に2年ほど、知人から引き継いだ居酒屋スタイルのラーメン店で修行を積んだ。その店もチェンマイの旧市街からわずかの距離にあった。そこで初めて経験したのが飲食業だった。飲食のノウハウとは別に受けた“洗礼”の数々も、貴重な実体験となった。

「従業員が時間に遅れて来るのは日常茶飯事。失敗してもマイペンライ(タイ語で「気にしない」)。日本の常識は非常識であることを痛感した」と末松さん。「あの経験がなかったら、せっかくの好機も生かすことができなかった」とも話した。

それから10年余り。首都圏から遠く離れたタイの地方都市でも、日本食はすっかり珍しくなくなった。かつては絶対に見られなかった非冷凍の鮮魚や活魚も手に入るようになった。チェンマイでも数十店以上もの日本食レストランが軒を連ねるまでとなった。

だが、末松さんは「タイにはまだまだ可能性が眠っている」と読む。人口では古都をしのぐ地方の大都市が、東北部(イサーン地方)などを中心に成長を続けているからだ。地方に活路を見いだした2軒目の「なると」が近い将来、現れるかもしれない。

(バンコク=ジャーナリスト・小堀晋一)

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