海外日本食 成功の分水嶺(99)日本食材販売業「サイトウフーズ」〈上〉
●タイへ日本の家庭の味
タイの首都バンコクと日系企業の工場が集積する東部のシーラーチャーで、日本の食材を販売し続けて間もなく四半世紀を迎える企業がある。一般家庭向け宅配と業務用卸を手掛ける「サイトウフーズ」。横浜市出身の斉藤誠さん(46)は2代目社長。食品加工会社のタイ駐在だった父、芳隣さん(79)が脱サラして1997年に起業した。
当時はまだ進出日系企業も少なく、日本食材を現地調達することは至難の業。ひとたびサンマのかば焼き缶でも手に入ろうものなら、「狂喜乱舞するほどだった」(誠さん)。1年に一度あるかないかの白子やあん肝の入荷で、仲間を呼んでの酒盛りが当たり前の、モノのない時代だった。
日本の大学を卒業し、システムエンジニアとして日本で会社勤務をしていた誠さんに「(タイの仕事を)手伝ってくれないか」と父から連絡があったのは2001年のこと。環境を変えてみたいと考えていたタイミングと一致した。程なくタイへ。半年間のタイ語学校を経て、父の仕事に加わった。27歳の時だった。
当時は、まだ手書きの伝票で業務管理を行っていた。IT(情報技術)インフラを整備するのが、誠さんの最初の仕事だった。在庫や資産管理もデータベース化。何人いるか分からない顧客も、ようやく全体像がつかめた。
サイトウフーズが初期のころから手掛けているのが北部チェンライ産日本米の販売だ。長粒米のタイ米とは食感も味覚も明らかに違う。日本の家庭の味の再現は、まずは主食となる日本米から始まった。
白米が十分に行き渡るようになって、次に手掛けたのが日本の食卓で当たり前に登場する食材の提供だった。ギョウザ、シュウマイ、揚げ物など。決して珍しいものではない、スーパーで売っているような普段使いの食材が、タイではまだ十分に行き渡っていなかった。製造してくれる委託工場を一軒一軒探しては、商品化を進めていった。
こうしたころ、父の芳隣さんから後継就任の打診があった。打診といっても「そろそろ、何となくという感じだった」と誠さん。17年、晴れて代表取締役に就いた。
誠さんが真っ先にこだわって取り組んだのが、「会社内に外部の風を入れること」だった。良い意味でも悪い意味でも、これまでは「三チャン企業」。ここから新たな時代を乗り越えるためには、企業体質の大きな変革が必要と考えた。
一つ目が、日本人中心だった客層をタイ人客にまで広げることだった。注文サイトの英語表記も充実させた。日本の家庭の味を知ってほしい。まずは食べてもらって、日本食の良さを確かめてほしい。客層や好みに合わせて、オリジナル商品も増やした。
次にブランド化への取組みを進めた。ライバル企業の進出や電子商取引の拡大で、さらなる認知度向上が求められる昨今。ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の活用、ネット注文、キャラクター化は急務だった。「サイトウフーズ」の浸透と露出に努めた。
そして、三つ目が片腕となる相棒の存在。セールスマネジャー坂本俊吾さんとの出会いだった。(バンコク=ジャーナリスト・小堀晋一)