海外日本食 成功の分水嶺(144)とうふ工房「卯の花・チェンマイ」〈下〉

リタさんが容器詰めする「おぼろどうふ」は一番人気だ=タイ・チェンマイで小堀晋一が1月23日写す

リタさんが容器詰めする「おぼろどうふ」は一番人気だ=タイ・チェンマイで小堀晋一が1月23日写す

●家族4人で力を合わせて臨む

山形県出身の山口薫さん(57)が、タイで豆腐作りを始めたのはちょうど50歳の時。首都バンコクで、とうふ工房「卯の花」を経営する宮下商店の社長、宮下一壽さんから誘われたのがきっかけだった。「俺が起業したのと同じ年だ。やってみないか」

それまでタイ最北端チェンライ県とバンコクを行き来しながら、縫製の仕事に携わっていた山口さん。食材の豆腐は好きでも、大豆から作ったことなどもちろん一度もない。そもそも原料や水はどうするのか。日持ちはするのか。不安に駆られながらも、話だけは聞いてみようと卯の花の工場に足を運んだ。

宮下商店は2002年の設立。無添加、成分無調整、そして日本と同じ「生」の味わいを大切にしていた。最も苦労したというのが、タイ産大豆と硬水で知られるタイの水を使って日本と同等か、それ以上の品質の豆腐を作ること。苦労と技術改良を重ねて開発したのがブランド「卯の花」だった。豆腐の味や仕事の中身に引かれて山口さんが豆腐作りに携わるようになったのは、それから間もなくのことだった。日本から遠く離れたタイで、宮下社長ほかタイ人スタッフの手ほどきを受けながら、素人の日本人が豆腐生産に関わるという奇妙な関係がスタートした。

タイに拠点を移す以前、山口さんは東京にあるリゾート会社の営業マンだった。日本の国土全体がリゾートブームに沸いたバブル時代。業界は華やかさ一色だった。だが、バブル崩壊とともに事業は低迷。こうした時に友人から声が掛かったのが、チェンライ県での縫製の仕事だった。

農業が産業の中心だったタイ北部などでは、農閑期を利用して農家が僧侶の法衣や袈裟を編む副業に携わるのが一般的。こうした伝統産業の産地と輸出拠点のバンコク、さらには海外の市場をつなぐ仕事がタイにはあった。東京でのバブル生活に疲れを感じていた山口さん。思い切って海外生活に活路を開いてみることに。1996年のことだった。

チェンライ県とバンコクを行き来する生活は、結局20年近くにも及んだ。この間、家庭も持ち、子宝にも恵まれた。一方で縫製の仕事は時代とともに少なくなり、新たな収入源を持つ必要にも駆られた。宮下商店の宮下社長から声がかかったのはそんなとき。豆腐を作りながら家族とともに暮らす生活が脳裏に浮かんだ。

宮下商店で修業したのは2015年から20年末までの6年間。この間、2ヵ月に一度、北タイの家族の元に帰れるほかは、一日も休まなかった。朝は五時半に製造を開始。来る日も来る日も、日本水準の豆腐生産にこだわり続けた。

独立したのはコロナ禍の21年初め。宮下社長の支援を得て、のれん分けの形を取った。当初は従業員を雇うつもりもあったがコロナで見送りに。家族4人で力を合わせて臨む豆腐作りに今は満足している。仕事でたまった疲れの癒やしは、仕事後に妻リタさんと飲むタイ産ビール。つまみはもちろん、自分で作った豆腐製品だ。

(バンコク=ジャーナリスト・小堀晋一)

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