海外日本食 成功の分水嶺(78)たこ焼き・お好み焼き・焼そば「祭」<下>

外食 連載 2019.06.05 11888号 03面
チーム「祭」のスタッフたち。中央が山内敏明さん=タイ・バンコクで小堀晋一が5月19日写す

チーム「祭」のスタッフたち。中央が山内敏明さん=タイ・バンコクで小堀晋一が5月19日写す

●プロ増えてきた催事現場

タイの百貨店などで開催される催事で、大阪名物のたこ焼きやお好み焼き、焼そばを提供しているチーム「祭」。主宰する山内敏明さんはこの道35年の大ベテラン。その原点は、高校3年生の時に出合った「大阪築城博覧会」の出店ブースにあった。

この催事会場でたこ焼きを提供することになったのが、山内さんの父と叔父だった。機材一式を新調しての本格出店。一方、山内さんは時間のあり余っている高校生。「お前も手伝え」と言われたのが、この道に入るきっかけとなった。「たこ焼きなんか本当に売れるんかいな」。初めはそんな半信半疑の気持ちだった。

ところが、父と叔父が出店したたこ焼き屋は見事にヒット。その後は催事組合の「浪花うまいもの会」からお呼びが掛かるまでとなった。このころ全国各地の百貨店で盛んだったのが、関西のソウルフードを満載した「大阪フェア」。大学生となっていた山内さんはここでもたこ焼きを売りまくった。東京・日本橋のデパートで行われた催事では、階下の階段まで人があふれる2時間待ちの大盛況となった。この時、「何でこんなに売れるんだろう」と思ったという山内さん。ふとひらめくと、近くにあったスピード印刷所に飛び込んで、にわか名刺を用意。首都圏の百貨店を片っ端から歩いて回る飛び込み営業を展開してみた。すると反応は上々で、中には催事への出店を即決してくれるところも。「いける。おもろいわ」。これがチーム「祭」のルーツだった。

催事を終え、自宅に戻った山内さん。鉄は熱いうちに打てとばかりに、温めたプランを父に話してみることにした。「オヤジ、俺、大学やめて、たこ焼き屋やるわ」。どんな返事が返ってくるかは分からなかった。ところが、意外にも返ってきたのは「おう、やってみろ」の一言。背中を押してくれた父には、今も感謝してやまない。

自分の会社を設立し、催事関連の事業を始めたのはそれから間もなく。各地で開催される大阪フェアへの出展や、東京の有名百貨店では常設店を任されるまでとなった。一方、大阪では自ら設立したたこ焼き工場で冷凍商品を開発。伊丹空港で「大阪土産」として販売したことも。順次事業を拡大していった。こうして事業が軌道に乗ったころ、山内さんは新たな一歩に踏み出す。かねて関心のあった海外進出。40歳を過ぎての転機だった。まずは、海外の日本食市場を勉強しようとシンガポールに飛んだ。ここで約1年半、みっちりと学習を積んだ。その後のタイ進出は貪欲な市場があったから。飲食業を模索する中で、催事の需要があることを知った。

当時はまだ、現地資本のレストランなどが見よう見まねで出店していたタイの催事。「本物のプロがいなかった」と山内さんは振り返る。それから7年。「タイの事業者の中にも徐々にプロが育つようになってきて、おもしろくなってきた」とも話す。プロ35年の大ベテランは、親子ほどの差のスタッフと今日も催事の現場に立つのを楽しみにしている。(バンコク=ジャーナリスト・小堀晋一)

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