海外日本食 成功の分水嶺(81)在バンコク日本料理店「花屋」〈上〉

連載 外食 2019.08.16 11924号 03面
タイにある日本料理店「花屋」と3代目店主の綿貫賀夫さん=タイ・バンコクで小堀晋一が7月6日写す

タイにある日本料理店「花屋」と3代目店主の綿貫賀夫さん=タイ・バンコクで小堀晋一が7月6日写す

●タイで最古、開業1939年

タイの首都バンコクにある旧市街地バーンラック。ここに戦前から営業する日本料理店「花屋」がある。1939年9月の開業は、世界史の年表をひもといてみると欧州で第2次世界大戦が勃発した年。アジアでは旧日本軍が日中戦争を戦っていた。その最中に駐在日系商社マンやその関係者、さらには友好関係にあったタイの政財界の要人らが足しげく通ったのが花屋だった。今年でちょうど開業80年。現存するタイで最古の和食店だ。

現在、3代目として店を切り盛りするのは綿貫賀夫さん(43)。タイで生まれ、タイで育ち、日本とタイで修行を重ねた板前。名前の「賀」は誕生日の1月3日から採った。2代目の父、考さん(68)も今なお現役だが、店の営業方針やメニューの開発など多くは息子が受け継いでおり、代替わりはほぼ完了。最近は対外的にも「3代目」を名乗るようにしている。

鹿児島県出身の母方の祖父が創業者。開業直前、料理人だった祖父は中国東北部の旧満州にいた。その兄が商用でタイにあり、請われて海を渡った。当時、民間航路といえば、もっぱら日数を要す遠洋貿易船。片道キップに等しい心境だったに違いない。

花屋のあるバーンラック区のシープラヤー通りは100年以上も前に開設された古い目抜き通り。周辺には、飲食店や商店、雑貨店、仕立屋などが点在して商業の中心地だった。当時、日本料理店も花屋を含め4、5店が付近一帯で営業していた。今以上に物珍しさもあって、いずれの店も活況に沸いていた。

ところが、戦況は日増しに厳しくなり、戦争末期は食材も満足に調達できない状況に。そして、日本が敗戦国となると店は休止を余儀なくされ、祖父一家は連合国軍によってバンコク北郊ノンタブリ県の施設に抑留された。不自由な生活がしばらく続いた。

抑留が解除されると祖父は、ほぼ同じ場所で一から店の建て直しを進めた。軌道に乗ってくると人手も足りなくなり、知人の紹介を頼って日本から職人を呼び寄せるようにもなった。こうして白羽の矢が立ち、新たにタイの大地を踏んだのが、新潟県の出身で実家の割烹で修行中だった綿貫さんの父、考さんだった。生真面目な気質の職人で、仕事にも慣れると間もなく店の娘と結婚もした。

祖父は釣り好きでもあった。当時も近くにバーンラック市場があって生鮮品を扱っていたが、寿司や刺し身に向いた魚となると十分とはいえなかった。そこで祖父は釣り船を仕立てて自ら漁に出掛けた。日本近海にいるアジやサバに似た魚、イカ、タコなどが捕れた。店に持ち帰り、寿司のネタやつまみとして提供した。

その祖父が倒れ、亡くなったのが綿貫さんが日本人小学校4年生の時。店はすでに父が継いでいたが、その先は長男の自分が守っていかなければならないという漠然とした思いがあった。中学2年が終わると、綿貫さんは父の出身地である新潟県長岡市の親類宅に身を寄せ、そこから中学に通い、高校へと進学した。タイに戻り、父の店に職人として修行に入る8年ほど前のことであった。(バンコク=ジャーナリスト・小堀晋一)

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