海外日本食 成功の分水嶺(124)バー「夜食堂」〈下〉
●タイ行き決断、2年先の退職願い
タイ北部チェンマイ県にあるバー「夜食堂」のオーナー小林史佳さんが、東南アジアを初めて旅したのは1990年代の終わり。雑貨商の知人に連れられ、ベトナムを訪れた時だった。日本では見たこともない人々の熱気、喧騒、息づかい。一瞬で虜(とりこ)となった。知人からは「タイなら治安も良いし、暮らすことができるかも」と勧められ、頭は一気にタイモードに。日本に帰国してもそればかり考えていた。
タイ行きを決断するまで時間はそうかからなかった。せっかちにもなっていた。当時の勤務先だった宇都宮市の金属加工メーカーに「退職願」を提出したのはそれから間もなく。ただし、日付は2年先の2002年12月31日だった。
「おいおい、どういうことかね」と尋ねる上司の営業所長。「いますぐタイに行きたいのですが、車のローンとかいろいろあって、2年後でないとダメなんです」と小林さん。自らの息子も日本を飛び出し、豪州で暮らしているという同所長。「分かった。預かっておこう」と机の奥にしまってくれた。
それから2年後。営業所長から再び声を掛けられた。「やっぱり行くのかね」「すみません」。念願のタイに降り立ったのは、翌03年1月23日のことだった。
バンコク、アユタヤ、カンチャナブリー、チェンライ。タイ各地を歩いて回った。兄弟国の隣国ラオスにも足を伸ばした。結果、選んだのは北タイの玄関口チェンマイ。どこか故郷の栃木県に似た匂いがした。
開業2周年を迎えたバー「夜食堂」は、新型コロナによる一斉規制で現在は二度目の営業停止措置となっている。一度目の昨年の今ごろは3ヵ月間も店を開けることができなかった。
「規制中は、子どもとずーっと一緒にいた」という小林さん。3年前に亡くなった夫のこと、思春期を迎えた娘の気持ち、不安、そして成長ぶり。勉強が手に付かないと訴える娘の言葉にも、熱心に耳を傾けた。
いらだつ娘の姿を見て、かつての自分を重ね合わせたりもした。どうしていいのか分からない。自分の気持ちが分からない。少女だったころの自分を振り返ったとき、思いは当時の母の気持ちにも及んだ。その日、久しぶりに国際電話を掛けた。電話口に出た母に自然と口が開いた。「あの時はごめんね」
小林さんには、もう一つの顔がある。かれこれ10年は続けている日本語教育のお手伝い。チェンマイにある学校の小学4年生から中学3年生の生徒たちがその相手。週に1回、現地の子どもたちに日本語の素晴らしさや文化を伝えている。
新型コロナの影響もあってこの1年余りはご無沙汰となっているが、機会があれば再開したいという思いもある。こんなにも日本に興味を持ち、親しんでくれるタイの子どもたち。触れ合い、交流を重ねていく中で、小林さん自身もまた勉強を続けている。
(バンコク=ジャーナリスト・小堀晋一)