海外日本食 成功の分水嶺(126)日本食レストラン「なると」〈下〉

外食 連載 2021.06.18 12245号 03面
出店間もなくの「なると」で父・新吾さん(右)と撮った記念写真=末松倫太郎さん提供

出店間もなくの「なると」で父・新吾さん(右)と撮った記念写真=末松倫太郎さん提供

●一心同体 背中押してくれた父

タイ北部の古都チェンマイで日本食レストラン「なると」を繁盛店に導いた福岡県出身の末松倫太郎さん(36)は、高校やその後の専門学校時代は自宅に引きこもりがちで、ネガティブ思考からどうしても抜け出せなかった。学業を終えてからも目指す就職先が見つからず、パチンコ店で時間をつぶすことも。「こんな生活をしていてはダメだ」。自己嫌悪に陥ることもしばしばだった。

そんな時に声を掛けてくれたのが、会社員の父新吾さん(68)だった。衛生製品メーカーの営業担当だった父は欧州、米国、アジアと海外市場を頻繁に渡り歩いていた。55歳で早期退職した時、「これからは世界に足を踏み出す時代だ。一緒に出掛けてみないか」と息子に声を掛けてきた。ともに旅した先が、まだ見たこともない東南アジアのタイだった。

首都バンコクから地方の各都市へ。街の活気、騒がしさ、人々の息遣い。見るものすべてが新鮮だった。中でも北タイの中心地チェンマイは気候も穏やかで、バンコクのようなごみごみした人混みや排気、騒音も少なかった。日系資本もまだ多くはなかった。「ここにチャンスがありそうだ」。再び戻って来ることを胸に、いったん帰国した。

タイに生活の拠点を移したのは2006年4月のことだ。まずはバンコクで語学学校に通った。外国語漬けの毎日で、タイ語と英語をみっちり習った。やがて準備を終えた新吾さんも到着し、一緒にチェンマイに渡った。日本に母と姉を残しての二人きりの生活が始まった。

日本をたつ前、激しいためらいと葛藤があった。旅行では楽しく感じられたが、長期暮らしとなると勝手が違うのではないか。自分に何ができるのか。自信は全くなかった。そんな時、父は決まって言った。「俺とお前は一心同体だ。俺にだまされたと思って付いて来い」と。背中を押してくれたのが父だった。

「なると」を出店した時の投資費用やその前の修行時の初期費用も、伸吾さんが貸してくれた。懸命に働いて今は返済し終えたが、父のバックアップがなかったら今ごろどうなっていたかと不思議に思う。少しばかり自信が付いたのも、半ば強引に誘ってくれた父がいたからだった。

振り返ってみれば、高校時代のころから父とあまり話したことはなかった。いつも一人で殻に閉じこもっていたように思う。タイに来てからも父はゴルフ三昧で、それぞれの時間を大切にしていた。多くを言われたこともなかった。ただ、何度か耳にした、この言葉だけは心に残っている。

「自分で考えて行動し、自分で思い描いた人生を送れ」

タイで15年目を迎えた昨年の後半ごろから、日本が気になるようになった。新型コロナウイルスの感染拡大で簡単に行き来ができなくなったことも関係しているかもしれない。北九州生まれの自分。実はまだ大阪以東は足を踏み入れたことがなかった。東京という未開の地をいずれ見てみたい気持ちが湧いた。

一方で、広大なタイの大地にはまだまだ魅力や可能性も。東北部コンケーンやコラートの成長ぶりにも関心がある。一区切りを終えた末松さんは今、次の一手を考えている。

(バンコク=ジャーナリスト・小堀晋一)