海外日本食 成功の分水嶺(166)寿司職人 井上健太郎さん〈下〉
●タイでの父との生活が原点
タイ・バンコクにある完全予約制の高級寿司店「天狐OMAKASE」で料理長を務める井上健太郎さんは、最北部チェンライ県の出身。大学の農学部では品質管理を学んだ。日本品種のソバを栽培し、バンコクの料理店などに出荷していた亡父和夫さんの影響があったのだろう。だが、いつしか思いは日本食の調理に向かうことになる。その原点は、日本を離れタイで35年間を過ごした父との暮らしの中にあった。
「タイでの生活が気に入ったから35年もここで暮らしたと思うでしょうが、それだけではないのです。何しろ父は辛いものが大の苦手。さらにはタイ料理も食べられない。自宅では毎日、日本食を自炊して食べていたのですよ」
そう教えてくれた健太郎さん。和夫さんが自宅でよく調理をし、食していたものとして、カツ丼、カレーライス、ラーメン、そばなどを挙げた。そば農園とは別に猫の額ほどの家庭菜園では三ツ葉、山芋、ミョウガ、水菜、ナス、コメなど日本品種の野菜類も栽培。そこで採れた食材が食卓に上っていたということも明かしてくれた。自宅での調理はもっぱら和夫さんが担当していたというが、成長するにつれ健太郎さんが手伝うことも。魚のおろし方も父から教わった。こうして見よう見まね、父親譲りのにわかコックが誕生した。「父も、お前は手先が器用で、料理が上手だとよく言ってくれました」と懐かしむ健太郎さん。あの体験が寿司職人として生きる原点になったのだと思うとも語った。
料理人の道を選ぶ決心をした健太郎さんは大学卒業後、まずはバンコクに出て居酒屋に就職。てんぷら、煮物といった料理の基礎を学んだ。その後、ホテル内にあった日本料理店で本格的な修業の道に。2年後には、米国にわたり、日本食を含むアジア料理全般の店で、さらにその1年後には、父の故郷日本で懐石料理の仕事に就いた。
日本での修業には4年を費やす計画だった。ところが、折からの新型コロナの感染拡大で料理店の営業はおろか人の移動が制限されるようになったことから、やむなくタイへ帰国。それでも、2年半にわたる日本での経験は「料理人として生きていける糧と自信となった」と振り返る。
このころ、和夫さんの身体はがんに侵されていた。みるみる痩せていく姿を見て、「寿司職人としての自分の料理を父に振る舞ってあげたい」。そう思い仕事に励んだ健太郎さんだったが、かなうことはなかった。父が旅立った1ヵ月後、現在の職場で副料理人に抜擢された。
健太郎さんの今の気がかりは、故郷に残した母ヌイさんと妹の美幸さんのことだ。毎日のように母に架電しては、声を聞くようにしている。時には航空券を予約して呼び寄せ、孫の相手を頼むことも。和夫さんも「姫、姫」と二人の孫に会うことを何よりの楽しみにとしていた。
「10年か20年後には故郷チェンライで日本料理の店を開きたい」というのが健太郎さんの将来の夢だ。バンコク出身の妻の内諾もすでに得ている。その時には、父が育てたチェンライ産そばもメニューに加えたいと思っている。(バンコク=ジャーナリスト・小堀晋一)