海外日本食 成功の分水嶺(132)バー「バガボンド」〈下〉
●自宅では味わえないプロの味を
タイの首都バンコクにあるバー「バガボンド」は、交通の激しいメーン通りから一本路地を入った閑静な住宅街の一角にある。洋館を思わせる一戸建て。ら旋状の階段を少し上がった中2階ほどの高さが玄関だ。手前に引いたドアから店内に入って階段を数段下がったところに、長さ5mほどの一枚板のカウンターがある。
オーナーの林昌輝さんは東京都の出身。今も現役のプロのギタリストだ。21歳の時に趣味が高じてバーテンダーの世界に。音楽でも訪れた米国西海岸やニューヨーク、シカゴなどで本場のバー文化に触れ、技術を会得した。いつしか自分自身の店を持ちたい。それが夢だった。
東京・六本木でバーテンダーを務めていた時だった。バンコクでバーを経営する日本人が来店したことがあった。海外でのバー経営。魅力や困難、たくさん話を聞いた。それを肌で感じたくなって、程なく視察に飛んだ。当時、タイは未曽有の大洪水の真っただ中。現地の喧騒と熱い息遣いに触れる中で、2011年暮れ、バンコクに居を移す決断をした。
タイで初めての自分の店は、14年7月にオープンした。日本人や外国人が多く暮らす街トンロー。今と同じ店名で、居酒屋の一部スペースを切り離し、全面改装を施して開業した。本場のバー文化を意識した凝った店作り。決して負けない品揃えとメニュー。そして、サービス。宣伝は全くしなかったのに客は口コミで増えて行った。強い手応えを感じた。
2年が過ぎたころ、建物の建て替えから立ち退きを余儀なくされた。ちょうど良いタイミングと受け止めた。かねて温めていた構想を実現することに。一軒家を丸ごと借り切ってのバー経営。日本では家賃が高過ぎてできないことも、ここタイなら選択肢として目の前にあった。ちょうどよい物件も見つかり、一枚板のカウンターも移動し再オープン。17年7月のことだった。
開店は午後6時。一軒目から通えるバーを目指した。腕の立つシェフを雇って、料理にも力を入れた。狙いは的中。資産家でハイソなタイ人客が友達を連れ、足を運んでくれるようになった。コロナ禍以前、客層の6割はこうしたタイ人客が占めていた。
営業が全面的に禁止された今も、林さんは毎日店に立つ。店内チェックにカクテルの研究。やるべきことは尽きない。ただ、最大で7人いたスタッフに対しては、まれにメニューの勉強会などで呼び出すことはあるものの、原則として自宅帰休を指示している。それでも、給料は全額支給している。「経営が厳しいからと言って、給料をカットするのは自分の経営理念に合わない」からだ。個人資産の運用を行うなどして原資をひねり出している。
「暇な時間が精神状態をおかしくさせることを最も心配している」と林さん。「バー業界は崖っぷちではなく、崖から完全に落ちてしまった」とも。それでも諦めは絶対にしない。再開を迎えた時、自宅では味わえないプロの味を提供することだけを、ただただ考えている。
(バンコク=ジャーナリスト・小堀晋一)