海外日本食 成功の分水嶺(154)ココロとカラダの健康弁当「ヤマト・アジア」〈下〉

惣菜・中食 連載 2022.10.24 12484号 03面
「急速な高齢化が進むタイの需要を掘り起こしたい」と意気込む保泉務さん=タイ・バンコクで小堀晋一が9月30日写す

「急速な高齢化が進むタイの需要を掘り起こしたい」と意気込む保泉務さん=タイ・バンコクで小堀晋一が9月30日写す

●お世話になったタイで恩返し

東南アジアのタイで、塩分や油分などを少なめにした健康弁当の製造・販売を手掛ける「ヤマト・アジア」。その親会社「やまとグループ」(石川県小松市)から派遣されているのが、埼玉県熊谷市出身の保泉務さんだ。駐在員ではあるものの、タイで働くのは通算2回目。前回この地を踏んだのは2014年。未曽有の大洪水から復興し、日系企業や日本人の進出が盛んになった時だった。

そのうちの一人として、現地の食品加工会社に就職した保泉さん。初めての海外生活に不安はあったが、すぐに慣れた。苦手な人も少なくないエスニック料理にも舌鼓を打つようにもなった。辛いながらもおいしい料理に、おいしいビール。胴回りは日に日にたくましくなっていった。

海を渡ったのは35歳の時だった。かねて胸の内に秘めていた「一度は海外で働いてみたい」という思い。自分で決めた年限にさしかかっていた。ちょうど目にした求人広告。迷っていてはいられないと、促されるまま飛び込んだ。

高校時代は、夕暮れ後までボールを追ったラガーマン。ポジションはバックス陣の一員ウイング(WTB)だった。一つのことを目標とした団体競技の経験が、今の自分の基礎にある。卒業後は、技術系社員としてゼネコン(大手建設会社)に就職。現場を渡り歩いた。

23歳の時、奮い立って転職した先が日本の国防の要、陸上自衛隊だった。「男に生まれた以上、一度は国の防衛に関わってみたい」。周囲にそう話し、自分を鼓舞したことを覚えている。配属先は普通科第30連隊。神奈川・横須賀、長野・松本、新潟・新発田などの前線で勤務した。

一つ間違えば、死が待ち受ける危険な任務。ここでも求められるのはチームワーク、そして指揮系統の大切さだった。上官を信頼する部下、一方で責任を追わなければならない上司。鉄壁の規律の中で、27歳までの貴重な4年間を過ごした。除隊時の階級は陸士長となっていた。

東京に戻り、酒類販売の営業職を務めた後、渡った先がタイだった。乾期が終わり夏本番といったころ。汗を拭き拭き営業したのが記憶にある。程なくタイ語にも慣れるようになると、一人で顧客開拓にも出掛けた。ここでは約6年間、働いた。

コロナ禍の20年6月、いったん帰国する。持病の再発が理由だった。全身のむくみが特徴的な、原因不明のネフローゼ症候群。血液中のタンパク減が引き起こす難病だった。投薬を続け、1年半ほど静養した。

体調が持ち直したころ、タイ時代の知人から連絡があった。「タイ進出を検討している会社がある。行ってみないか」。現在の勤務先「やまとグループ」だった。声を掛けてもらえるのも何かの縁と、早速、新幹線で駆け付けた。

事業内容は、身体に優しい健康弁当の製造販売。まさに自分が必要としているものだと実感した。7ヵ月間の社内研修を経て、2度目のタイ赴任が実現したのは22年6月。前回帰国から丸2年がたっていた。

不思議な縁を感じている保泉さんは、「お世話になったタイでご恩返しがしたい」と静かに話す。「ここには無限の可能性がある」とも。少子高齢化が進むタイで、今回も任務を完遂しようと思っている。

(バンコク=ジャーナリスト・小堀晋一)

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