海外日本食 成功の分水嶺(140)呑み食い処「五郎」〈下〉
●母の故郷、チェンマイで生きる
タイ北部の古都チェンマイで呑み食い処「五郎」を経営するオーナーシェフの佐藤誠さんは、バンコク生まれのバンコク育ち。小中学校は現地にある日本人学校に通い、卒業した。日本の高校に進学するか悩んだが、実父の正男さんがバンコク・タニヤで日本料理店を経営していたこともあって、取りあえずそこに“入社”することにした。
「父は教えるタイプの職人ではなかった」と佐藤さん。この味はどうしたら出せるのか。あの包丁さばきはどうしたら体得できるのか。もともと観察力はある方だったのが幸いした。昔ながらの、見て、盗んで、まねて、自分でやってみることで仕事を覚えていった。
2000年に父が引退を決め、店を畳む際に日本行きを決意した。その時はまだ店を継ごうとは思わなかったし、十分に継げる自信も実感もなかった。とにかく自分には修行が必要だと考えた。足りないものがあった。料理人としても、人生修行の点でも。
友人を頼って訪ねたのは福島県郡山市。居酒屋チェーンに就職し、調理から食材の手配、接客、清掃、店の管理まで飲食業のイロハを一通り学んだ。業界の奥深さを知った。
日本での暮らしも慣れてくると、東京に出て店舗の店長代理にも抜てきされた。当時タイに出店を検討していたチェーン店にも請われて勤めたことがあった。新店の立ち上げにも当初から関わった。
5年が経過した05年、タイへ帰国することを決断した。30歳目前になっていた。父のそばにいようとも考えた。タイでは、日本で磨いた腕前を試そうと一流ホテルの和食店に板前として入社した。本場仕込みの腕前を披露する機会に恵まれた。
このころタイで人気を集めるようになったものに、外国産の果物があった。特に味が上品で、甘さの豊かな日本産はひっぱりだこだった。ブドウ、サクランボ、リンゴ、ナシ…。これら日本産の果物を扱うスーパーは高級店ばかりで、まだまだ高根の花だった。そこに商機を見つけた。父の出資を受け、バンコクのシーロムで輸入果物を扱う事業を担当した。高級スーパーよりも価格を抑えたこともあって、商品は飛ぶように売れた。宣伝ツールのSNSもまだ存在しなかった時代。実店舗と口コミは、このころの商売の中心だった。タイでお金を稼ぎ、生きることの意味を少し理解した気がした。
あれから15年近くがたち、自分は今、亡き母ナリサラさんの故郷チェンマイにいる。自宅では、現地で知り合ったメーホンソーン県出身の妻エーさんと、かわいい盛りの一人娘エリカさんとの3人暮らし。「バンコクのような競争の激しい世界で生きていくことは大変だが、ここなら自分のペースで生きていける。自分の好みや考えに合った生き方をしたい」とはにかんだ笑顔で話した。
(バンコク=ジャーナリスト・小堀晋一)