海外日本食 成功の分水嶺(174)「小料理みかみ」〈下〉
●若き日、心の師匠に救われる
タイの首都バンコクで小料理みかみを経営する三上博樹さん(62)には、心の師匠と呼んでも差し支えのない一人の料理人がいる。シーロム地区で焼き鳥店「やきとりハウス桔梗」を約40年間経営する太田学さんだ。これまでに焼いた焼き鳥は優に130万本以上。知る人ぞ知るタイ老舗の一軒だ。そのつながりは、今から四半世紀以上も前にさかのぼる。
日本でタイ人女性と結婚し、その縁でタイに移住を決めた三上さん。30歳の時だった。当時、タイでは日本食の第1次ブームが始まろうとしており、寿司を中心に和の職人を求める求人で市場は活気にあふれていた。
程なく調理指導者として職を得た三上さん。後輩のタイ人料理人に調理法や盛り付けの方法などを伝授。忙しい日々を送っていた。こうしたこともあったのだろう。給与や生活は保障される一方で、妻との生活は次第にすれ違いが意識されるようになっていた。間もなく二人は離婚した。
異国の地で独身生活に戻ることは、ことのほか身に堪えた。仕事が終わって自宅に帰っても待っている人がいない。他に知り合いがいるわけでもない。次第に飲み歩くようになり、終業後の時間の大半を飲酒に費やすようになった。その中で、ほぼ入り浸り状態だったのが、太田さんの経営する桔梗だった。
最盛期にはほぼ毎日、店に通った。カウンターに陣取り、閉店の時間まで飲んだ。給料は底を尽き、太田さんに借財を申し込むこともしばしばだった。「貸したお金を飲み代に使って、さらに返してもらうんだからこの上ない」と始めは冗談を口にしていた太田さんも次第に心配となり、ある時こう告げたという。
「店に来てもらうのはうれしいけど、それじゃあ身体も生活も持たないよ。つらいのは分かるけど、もう少し我慢しないと」
これに対し、30歳を少し過ぎたばかりの三上さんは、忠告を真摯(しんし)に受け止められるほどまだ老練ではなかった。「分かりました。もうここには来ません」と啖呵(たんか)を切ると、店を飛び出した。以来、ぴったりと店には姿を見せなくなった。
一方の太田さんは、わずかに驚きを感じたものの、若き和職人の将来を考えると、「今、言ってあげないと駄目だ」と思った。忠告は間違っていなかったと今でも当時を覚えている。
事件から3ヵ月後、桔梗ののれんをくぐる一人の若者がいた。毎日の飲み歩きを止めて久しい三上さんだった。「やれば、できるじゃない」と太田さん。三上さんも照れくさそうに頭をかいた。久しぶりの太田さんの焼き鳥と酒はうまかった。
以来30年以上の付き合いとなるが、三上さんは数えるほどしか桔梗を訪ねていない。週に一度の休業日(日曜日)が桔梗と重なってしまった今では、全く足を運べずにいる。それでも、太田さんが高熱を上げ店内で倒れた時などは、真っ先に駆け付け食事を提供した。口には出すことのない師弟関係があった。
小料理みかみが開業した3年前のある日、店に大量のお祝いビールが届いた。5ケースだから計60本。送り主には「桔梗・太田」とあった。コロナ禍の開業とあって誰にも連絡していなかったというのに太田さんだけは知っていた。うれしくて久々の長電話をした。
(バンコク=ジャーナリスト・小堀晋一)