海外日本食 成功の分水嶺(129)昭和酒場「サムライ・キッチン」〈上〉
●タイ人も知っている日本の古き良き時代
懐かしい「火の用心」の看板に、蚊取り線香の宣伝ポスター。壁に張られた温めるだけでおいしく食べられるレトルトカレーは、今や災害時の非常食にも。そんな「昭和」の雰囲気が満載の居酒屋がタイ北部の古都チェンマイ県にあると聞いたら、どれほどの日本人が驚くだろうか。ずばり名前は「サムライ・キッチン」。多店舗展開にも成功し、現在同県内に4店舗を構える。
オーナーの野々村裕樹さん(51)は岐阜県出身。2016年2月に1号店の「チャンモイ本店」をオープンさせた。ここまでもかというほど「昭和の日本」を意識した造り。ダイヤル式黒電話やブラウン管式TV、さらには外国人が羨望(せんぼう)の的で見る日本刀のレプリカを展示するなど力の入れようだ。
「自分が生まれた時代を再現したかった」と野々村さんは動機を語るが、こだわりの背景は、それだけではなかった。
意外に知られていないが、昭和30年代後半から50年代の日本の映画やドラマは、配給会社などを通じて海外向けにコンテンツ配信されている。タイにも少なくない数の作品が伝わっており、「日本の古き良き時代」は予想以上にタイ人視聴者に知られている。
ウルトラマン、仮面ライダー、一休さん、おしん、ドラえもん…。映画「三丁目の夕日」に出てきそうなまだ見ぬ日本を感じながら、遠い南国の地でタイの人々も「昭和の日本」を感じ取ってきた。サムライ・キッチンを訪れた客が口々に「あっ、これ知っている」と話すところに、野々村さんは勝機と手応えを感じてやまない。
より多くのタイ人客に来店してもらえるようにと圧倒的な低価格も実現した。つまみや食事はもとより、ビールや酎ハイ、日本酒などの酒類も含め一品オール59バーツ(約200円)均一。バンコクにも安価な日本食や日本の酒類を提供する店があるが、ここまでの低価格はまず見たことがない。市場開拓にかける本気度が見て取れる。
だが、開業直後は不慣れから途方もない苦労も味わった。従業員を雇っても、日本食の調理経験者に出会うのは至極まれ。野々村さん自身が厨房に入って調理に専従することが少なくなかった。おのずからオペレーションもちぐはぐとなりがちで、待ちぼうけを食らった客からはクレームの嵐。そのたびに落ち込んだ。
それでもチェンマイに根付く覚悟で取り組んだところ、少しずつ前進の兆しが現れる。働きやすくなるよう厨房内の配置も改修し、トイレも増設。接客や調理の研修も繰り返し行うと、次第に客足も増えるようになった。
こうしたころ、チェンマイ在住の著名なインフルエンサーが来店。SNSに体験談を書き込んで評判になるという幸運も舞い込んだ。これが大きくブレーク。一気に繁盛店として知られるようになった。
「日本の昭和と低価格帯にこだわったことは間違っていなかった」と野々村さん。日々の浮き沈みが激しい飲食業にあって、ようやくつかんだ安定だった。
(バンコク=ジャーナリスト・小堀晋一)