海外日本食 成功の分水嶺(82)在バンコク日本料理店「花屋」〈下〉

外食 連載 2019.08.19 11926号 03面
タイにある日本料理店「花屋」の店内。桜などの華やかな内装が特徴だ=タイ・バンコクで小堀晋一が7月6日写す

タイにある日本料理店「花屋」の店内。桜などの華やかな内装が特徴だ=タイ・バンコクで小堀晋一が7月6日写す

●家業継ぐ3代目の責務

タイの首都バンコクで戦前から営業する日本料理店「花屋」。その3代目の綿貫賀夫さん(43)はタイ生まれのタイ育ち。幼いころは日本で暮らしたことはなかった。将来を考え、両親が日本の高校に通わせようと考えたのはバンコク日本人学校2年の時。新潟県長岡市の父の親類宅に住み込んで高校受験にチャレンジ。その後の3年間もそこから通った。

「日本人社会にある上下関係が理解できず、最初はとてもつらかった。早く社会に出ようと思った」と話す綿貫さん。高校卒業後は東京の大学に進学したが1年で辞め、調理師専門学校に。この頃から、タイに戻り家業を継ぐことを真剣に考え始めていた。そのためには欠けている修行が必要と考えた。東京・渋谷の寿司店などで計1年半、みっちりと下地を積んだ。タイに帰国したのは24歳になろうという時だった。

ところが、日本とは調理する魚も違えば、求められる味付けや盛り付けも異なっていた。それ以上に衝撃を受けたのが、一緒に働く従業員たちの仕事に向き合う姿勢だった。「自らの能力に磨きを掛けてお客さんと向き合い、お客さんに幸せを提供するのが職人としての自分たちの仕事」。そう教えられた綿貫さん。だが、大半の従業員は見たこともない和食にさほど関心もなく、給料日だけが楽しみというのが現実だった。

「このままでは職人として成長できない」。そう思った綿貫さん。次いで考えたのが、出稽古を通じてのタイでの修行だった。幸いに毎週月曜日は定休日。この時間を使って仕事を深めようと考えた。知人のつてを頼りに別の料理店でアルバイト。自ら願い出て、しごいてもらった。そんな二足のわらじの状態が1年半ほど続いた。

「刺し身も料理もおいしいんだけど、ご飯だけがおいしくないんだよ」。店に立つようになった綿貫さんの耳に、こんな客の言葉が入ってきたのはつい4年ほど前のことだ。常連客からの一言だった。「しっかり対応しなければ」と危機感を募らせた。これが、その後の3代目誕生の大きな転機となった。

客の“苦情”を受け綿貫さんが考えたのは、それまで使ってきたタイ産ジャスミン米の使用を止め、タイ産のジャポニカ米に切り替えるという選択だった。頑固者で知られた2代目の父を粘り強く説得。配合を調整するなど1年をかけて順次切り替えていった。その1年後、訪れた客がまた言った。「寿司がおいしくなったね」

それ以降、父は息子の仕事にめっきりと口を挟まなくなった。綿貫さんも気持ちを察して、進んで新メニューを考案。父に提案するようにした。三色丼、海鮮丼、ハスカップ巻き…。こうして生まれた新メニューが次々と客を呼び込んでいった。周囲からはいつしか「3代目」と呼ばれるようになっていた。

花屋の客層は80%以上がタイ人だ。親子3世代で通ってくる客も珍しくないという。そうした環境の中で今日も魚をさばき、寿司を握る綿貫さんは「カウンターの中が一番落ち着く」と笑顔を見せる。創業80年を迎えたタイの老舗日本料理店。その歩みには、想像もできないような苦労と努力があったに違いない。(バンコク=ジャーナリスト・小堀晋一)

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